「正法眼蔵」現成公案の巻に、
「仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、うるなり。万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
意味=仏道をならうのは知識や教養つけることでなく、
あくまでも自分自身を明らかにしていくことである。
それには自分自身の執着を離れないと解らない。
自分を忘れたら、万法(あらゆる存在)に証らされる。
自分が証るのでなく、自分を忘れ、エゴを離れた時、自ずと証りがやってくる。
そのとき自己の身も心も他人の身も心も亡くなり、自分と他人の境がなくなる。
「おれが、おれが」の心がなくなり、比較、競争、対立することがなくなる。
道元禅師らしい諭し方だ。
この身心脱落を維持するには、
1.貧しくなければならない。(富むと怠けるのが人間の常だ)
2.証(さと)りにも執着しないこと。(証りが目的でなく、いつも柔軟心でいる自由で自在だ)
ひたすら坐る。只管打座
道元禅師の正法眼蔵の「菩提薩埵四摂法」には、
「ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切に向かうべし」
意味=ただまさに、なごやかな顔つきで、あらゆることに接することが大切だ。
われわれ凡人は自己に執着し、他人と競い、対立し自己を離れられないのが普通だ。
一日中、笑顔でなんかいられない。瞬間瞬間心が騒ぐのが事実だ。(素直に自分を見つめる)
だからこそ、自己を忘れろ!
そうなるために善行に徹し、他人に役に立つ行動で利他行をしろというのである。
「善因善果」の因果の法則に乗っ取り、善き種をまく行動をすると善の結果がでる。
道元を始め先人の古教を学ぶのは大切なことだが、
われわれが学ぶのは言葉でなく、先人の行った行動をまねることだ。
日々自問自答し、自分が行動が出来てるかを反省。
「自己を忘れる」実践に挑戦だ。
「可能性を信じるものこそ、可能性を開く」
みなさんは自己を忘れる出来てますか?