無我になる

投稿日:2015年9月18日 更新日:

一昨日、横浜で盛和塾の世界大会がありました。
もう二十年近く稲盛経営哲学を学んできたが、
解りかけたり解らなくなったりで一向に理解が深まらない。

もちろん私の仕事や人生の姿勢に問題があることは事実だ。

素晴らしい経営体験発表を聞くのだが、
今までは感動して涙が出てとまらないのがいつもの私だ。

ところが今回は全く違った。

感動ではなく反省の気持ちが出てくるのだ、もちろん涙も出ない。
逆に自分が行動できていなくて自分は外ばかり見て、
外に自分を良く見せようと戦っていたような気がする。(相対的な自己形成)
自分の内に向かって本気で向き合っていなかったと発表者の話から感じた。(絶対的自己形成)

ふと、道元の「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。
万法すすみて自己を修証するを悟りという」

悟るということは仙人になったり、聖人君子になることではない。
物事の真実の見方を体得することだ。

普通には自己から外の物事を見る。
だから、相対的に比べる考え方が身につくのである。
対象が外だから、外の人間や事物を変化させることはできる。
自分がこうなれば良いという思いを外の世界を変えて実現するのである。

そうするには、自然を良く観察し、人間にとってうまく利用して人間化してきたのが人類の歴史だ。
全く人間中心(自己中心)で自然には迷惑なことだが、今までは自然の懐が深く循環してきた。

ところが、環境汚染と言って自然を使いすぎて自然の新陳代謝機能が狂い始めた現代、
人間が自然を変えるのでなく、自然に人間合わせ、変化することが求められる。

言い換えると自分の自我意識から無我の意識に切り換えることだ。

将に道元が言うように、自分を無我にする。
どうすればできるか?
簡単だ。
「世のため人のため自然のために」良いことをする。
結果人間が生かさせてもらうという謙虚な心構えを創ることだ。

自我を無我にするには自分のほしいものや、自分の自己実現から一度はなれて、
純粋に「動機善私心なかりし」で、
世のため人のために役に立つ「志」を強くもてば、同時に無我とならざるを得ない。

恩師小田切先生にあるとき「仏になれ」といわれたことを思い出した。
即座に私が答えたのは「人間ですからなれません」だった。

自分の心を自分のために使うと言う視点から、
全く反対の世のため人のために使うという視点で考えればわかる、

すると必然的に「無心」「無我」になれるのである。
仏教では分別するな無分別知になれと教え、自我を捨てよと教える。
どうも理解しにくい表現だ。

自分の心と身体を「世のため人のために」,
自分で育てると言う逆転の発想こそが無我になるコツだ。

四書五経の中の「大学」には「修己治人」と、
先ず自分の身と心を磨き修めることが一番で、
結果、人を治めることができるとかかれているのも腑に落ちる。

ある剣道修行者が「剣で勝つ方法を指南くれ」と柳生但馬(将軍指南役)に問うた。
柳生但馬は「勝つ方法は知らないが、自らを修める方法は知っている」と答えた。

皆さんも私のように自分で考え行動する自分(自我)をなくして無我にはなれないと思っていませんか?

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