毎月実家で父の月命日に読経していただくのは、
浄土真宗西本願寺派の西願寺高丘康文住職か御子息の副住職だ。
今日は副住職で「倶会一処」という機関紙をいただいた。
お経の中にある「盲亀浮木の話」が書かれていたので紹介する。
仏教では十界と仏になる段階を解く表現がある。
「地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界
声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界」
お墓に行くと必ず六地蔵が入り口に造られている。
あれは地獄界から天上界の六道を繰り返しうろうろ迷い苦しむのが人間で、
それを救うための地蔵である。
さて、初めて仏法に耳を傾ける段階を声聞界という。
私たち凡人が声を聞くのは病気で苦しんだり、
人間関係で苦しんだ時に何とか苦しみから逃れたいために聞く気になるのが一般的だ。
苦しい時に出会うので仏教始め宗教嫌いの人も多い。
仏法の声を聞けるのも人間として数少ないと、
御釈迦さんがたとえ話で話されている。
これが、実に面白い説法なんで書かせていただく。
「お釈迦さんは手で砂ををすくわれ、それが人間が生まれた命の数であるといわれました。
次に手を払われ、手についた残りの砂が、仏法に逢えた人間であるといわれました。
経典では海面二百年に一度しか首を出さない亀が、、海面に首を出してみると、
なんとそれが大海に浮く木に空く穴の真ん中であったという話だ。」「盲亀浮木の話」
仏法に出会えた千載一遇の喜びを表し、
またそれほど素晴らしい中味で普通は聞きがたいものだという意味である。
親鸞さんは14歳で出家し29歳の時修行すればするほど、
煩悩に悩まされると法然上人に救いを求めたというのである。
法然上人に「仏は光、煩悩は影」、
「光強ければ影濃し」と一体のものだと諭された。
さて、声を聞く声聞界から段階的に、仏の教えに共感して一人悟るのを縁覚界、
それを実践し、他人を救済するのを菩薩界、さらに仏界となるのである。
現実には政界や経済界、医学会等で実践される素晴らしい人がたくさんおられる。
あるお寺さんがさらりと「苦」や「迷い」がない人には仏法は必要ない。
皆さんは仏法の声聞きたいですか?