私は天邪鬼

投稿日:2015年6月3日 更新日:

私は随分天邪鬼にできてると、つくづく感じる。
人から「こうしなさい」と言われたら「こうしない」反対のことをする。
実に素直じゃない自分がいる。

ところが、私の本能の呼びかけで好きなことや得すること、
好きな人や尊敬する人から「こうしなさい」といわれると、
今度は無批判に従ってしまうという素直な一面もあることも事実だ。
これを素直というのかどうか疑わしいが、本能に素直と言うことには間違いない。

一体私は、本能が主人か信念が主人か、
私の主体性はどこにあるのかと自分を疑わざるを得ないのである。
若い時から自分の主体性や信念を創るのに迷っていたことは事実だ。
23歳ぐらいの時に迷い悩んでる時に出会ったのが小田切瑞穂先生だ。

恩師の小田切先生が科学と宗教を統一したという独自の「潜態論」という哲学を
教えていたのだ。
科学万能、理性至上主義、唯物弁証法が最高の哲学だと世の中は信じきってる時に、
その現実の論理を否定するのだから面白い。
ところが、地球が自転してるといったガリレオのように投獄されるまではいかないが、
世間からは観念論のレッテルを貼られて、締め出されていたのである。
新しい哲学は証明がされていないから誰も信じないのである。

最初に独創するものの現実の扱いは悲劇とも言える。
その学説「潜態論」から多くを学んだことは間違いない。

実に天邪鬼だからこそ、この先生には惚れ込んだ。
主流のエリートがばかばかしいと思いこんで誰も学ばないからこそ素晴らしい、
私の天邪鬼の魂に火がついた。

渋沢栄一のように「右手にそろばん左手に論語」で道と経済を合一した歴史上の人物もいる。
二宮尊徳もまた「道徳なき経済は罪悪、経済なき道徳はたわごと」と600ヶ村の村を立て直し、
藩の財政を豊かにした人物も日本では排出してる現実がある。

日本文化には儒教の「中庸」という考えもあり、
実は物と心は離れていない一緒のものだと考える時期の方が長くあった。
茶道では「和敬静寂」「主客一如」の心の具現化に作法を確立した。

戦後はデカルト的二元論で、もっぱら科学技術の現象論に傾いていく。
人間の持ってる理性の一方の収斂理性に偏っていると評されていたのは小田切先生だった。

師小田切は理性には二つあると述べられる。
1.収斂理性=虫眼鏡のように集中し探求する理性
2.発散理性=電熱器のようにあまねく人々に分け与える「愛」の理性(利他行)
この二つのバランスが大事とよくおっしゃっていた。

競争の社会で「愛」だの「与える」だの言っていたのでは生きてはいけないのも事実だ。
それでは、単なるお人よしに過ぎないと考えるのも至極当然だ。
しかし、私は天邪鬼だから、利他行一番にして行動することにしてる。
決して反体制派でもなく、今の科学主義を100%否定するものでもないが、
そんな行動から人間が更なる進歩、発展するチャンスがあるように感じる。

人間社会が「与え」あえば極楽、「奪い」合えば地獄だ。
天邪鬼な私の浅薄な考えだが、
「与え合う」現実世界が極楽になるのではないかと夢見てる。
空想になるか現実になるかは生きてみなければわからない。
二度とない人生、何にかけるか?面白くなってきた。

皆さんは素直ですか、天邪鬼ですか?

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