仏教では相手と同じ立場に身を置くことを「同事」といいます。
道元禅師は「同事と言うは不違なり。自らにも不違な理、他にも不違なり。
----同事を知る時、自他一如なり----同事は薩埵の行願なり。
ただまさに、やわらかなる容顔をもて一切にむかうべし。」
「正法眼蔵」菩提薩埵四摂法
意味=同事は単に無自覚に相手にあわすのではない。自分を守るべき道にも違背せず、
相手の行く道にも違わずに、自他一如の見地に身を置くのは、なかなか容易いことではない。
せめて自分の守るべき道の違わず、やわらかな容顔を持って相手に接したいものだ。
元来人間は通じ合ってるのだが、分別する相対的な知恵がつくと、
この一如という本来の姿でない相対的(個々人ばらばら)であるのが普通と考えてしまう。
相手の身になれない自分を自分だと思い込んでいるからである。
禅語に「啐啄同事(機)」といって、雛が殻を破って中からくちばしで突付く、
親鳥は外からからを突付く、同事に重なって子供が誕生する。
親鳥と小鳥が一如になるタイミングを言うのだ。
親子の関係や双子などは「胸騒ぎがする」とか「予感がする」といった、
テレパシーのようなものを感じる。
元来人間には持ってる能力のはずだが、
知識や知恵で素直な心に覆いかぶさり、こんな感覚が退化するようだ。
最近は相手を洞察する洞察力とか気遣い力や気の利いた行動で、
喜ばすことが出来ない人間が育っているように思う。
日本は今後人口が減少し、経済のデフレ化は進むに違いない。
だからこそ、世の中の物質の生産の効率により、たくさんを安くという考えから脱却し、
さらに、技術力による多機能化で進める商品開発で需要創造する技術者を育てるのでなく、
本物の価値が正しく評価出来る人間を育てることが重要なキワードである。
ヨ-ロッパの大航海時代にコロンブスが世界へ乗り出したのは、
金、銀や香料を求めて物を探しに行ったが、
日本の遣隋使や遣唐使は目に見えない文化を学びに最澄や空海は旅立った。
今こそ、先人に学び日本の歴史を学び、現実社会に必要な技術論のみでなく、
本質的な法則や道理を学ぶ人間を育成する時代が来てるように思う。
みなさんは仲間や子供、伴侶と啐啄同事に理解しあえて一如ですか?