物外(もつげ)

投稿日:2015年5月9日 更新日:

中学時代覚えたヘルマン・ヘッセの詩に、
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人が言う・・・・・・」
誰に教えられたわけでもないが、幸いは外にあると最初から考えてる自分がいる。

これに疑問を持ったことはなかった。
禅語に「物外」という言葉がある。
「物」=一般に価値がある宝石とか、中味の精神的な価値(たとえば有名人の絵など)で、
誰もが手に入れたいとおもってる世の中の物だ。

ところが、この人間的普通の価値を全面的に否定するのが禅の教えるものだ。

御釈迦さんのことを「両足尊」というのだが、
生まれた時に七歩歩いて「天上天下、唯我独尊」といったと教えられてるが、
普通の人間ではできませんから真実かどうかわからない。

御釈迦さんが人が立って二本の足で歩けることをおおいに尊び、説法した記述はある。
もし四本だったら、人間が人間になれなかったというのである。
手が自由になったから道具が作れ、動物とは違った生活ができた。

この身体がすべて普通に動くのが当たり前からスタートしてる私にとっては、
不平不満の種でもある。
たとえば整形外科で「鼻を少し高く生まれたらよかった」と言って容を変える手術をする。
呼吸するには充分な鼻であることに感謝せず、容にこだわる。

禅では真理とは「呼吸の間なり」と言って、
呼吸できないと容がどうのこうのと言っても始まらないとも解くが、
凡人の私には論点が違いすぎて、意味が解らなくなる。

さて、もう一つ禅語を紹介するが、意味をはき違える言葉だ。
「照顧却下」(しょうこきゃっか)
普通は「足元、気をつけて、靴をそろえなさい」と日常の作法のように説くが、
これは鎌倉、南北朝時代の弧峰和尚(1271~1361)という人物が、
修行僧に尋ねられた時に答えた言葉だ。

僧問う、
「禅的に生きる極意を、一口でいってください」と。

弧峰和尚答えて、
「却下を照顧せよ」

禅は何も難しくない、足を見よ、二本の足の尊さに気づけと解いたのである。

私の友人に尊敬する素晴らしい経営者がいる。
彼は毎日仕事を終えて帰ったら必ず日課のように行うのが、
今日一日履いた靴をきれいにゴミを払い磨くことだ。

それだけではない。
「今日一日ごくろうさんでした」と感謝を述べ一礼する。
もちろん経営も素晴らしく成長させ社員を大切にすることはいうまでもない。

彼から学んだのは、二本の足が動く「当たり前」に感謝する心を養うことだ。
経営も同じで、お客さん始め仕入先、
一緒に働く仲間に感謝がなければ成長などないとあらためて肝に銘じる次第だ。

皆さんは無意識に「当たり前」と思っていることありませんか?

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