幕末に生まれた松陰は長州藩それに国家の行く末に憂いを持ち学んだのである。
それは性善説の孟子である。
「仁義」による王道政治を主張しただけでは松陰は心服しなかったに違いない。
孟子の考えは紀元前4世紀の戦国時代の儒家としては君主からは受け入れがたい急進的な考えであった。
たとえば、盡心章句下に「民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を軽しと為す」
意味=政治にとって民がもっとも大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君子などは軽いと為す。
この時代の君主は絶対権力者であったのに、
その立場を一つの職能、役割であるという意味と,
民あっての君主という民主主義の考えであったから松陰も納得したのであろう。
この前提に立って、
二つの重要なことを孟子から学んでいる。
1.勝文公上四章に
「心を労する者は人を治め、力を労するものは人に治められる。
人に治められるる者は人を食ひ(やしな)、人を治むる者は人に食はる。
天下の通義なり」
意味=精神を使うものは人の上にたって人を治め、肉体を使うものは人に治められる。
人に治められるものは(モノを生産して)治める人を養い。
人を治める者は下の人から養われる(代わりに政治に従事して、その人々を治める)
之が天下の通用する道理である。
2.勝文公上四章に
「人の道あるや、飽食暖衣、逸居して教えなければ、則ち禽獣に近し。
・・・・・・・・・契(せつ)にして司徒たらしめ教ふるに人倫をもってし、
父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」
意味=人は衣食足りて怠けて教育を受けないと、全く鳥や獣のようになってしまう。
(名君、舜の家臣)契(せつ)を教育担当の役人にして、人々に人の道を教えさせた。
之が一般に五倫といわれる教えだが、教育のおかげでこの五つが尊ばれるようになった。
それは、父子には親愛、君臣には礼儀、夫婦は区別、長幼は順序、
親友の間には信義がある。
そんな国風ができたというのだ。
幕末に生きた松陰は人間尊重の考えが根底にあり、
現代の民主主義社会を目指したのであろう。
現実の束縛の厳しい封建社会からの解放され、
異国を学び植民地化されないことを願っていたに違いない。
歴史はこのように発展し進化して現在の自由な社会を誕生させてきた。
不自由の中で自由を求め、自由の中で傲慢や放逸になれば歴史は逆戻りだ。
春彼岸に先祖への感謝の念をあらわし、明日は墓参りさせていただく。
皆さんは松陰の憂い如何に感じますか?