中国の唐の時代、太宗(李世民)が則天武后の息子中宗(太宗の孫)のために、
政治の指南書としてあらわした書が貞観政要だ。
日本は遣唐使を派遣していた時代で、後の北条正子は帝王学として盛んに翻訳させた。
さて、太宗は暴走しないように文人を政治の中心に据え、
(軍が暴走しないようにシビリアンコントロールだ)
さらに、諫言者に玉珪と魏徴の二人を側近に置き、
耳に痛いことも受け入れ自分が偏らないように王道政治を行った。
魏徴がなくなる4年前の貞観13年十漸を諌める疏に「太宗の克く(よ)倹約に終わること能して、
近歳頗る(すこぶ)奢縦(しゃじゅう)を好むを恐る」
と十か条にわたって、謙虚で人民を愛し、自分のことを二番にした姿が変貌したと諫言する。
立派な政治を行ってきた太宗も13年たって豪華な別荘建てたり贅沢な暮らしをするようになるのである。
「有終の美」という言葉が書経にある。
「之を知ることは難しきに非ず、
之を行うことは難し。
之を行うこと難しきに非ず、
之を終えること難し。」
意味=知ることは難しくないが、実行することは難しい。
実行すいることは難しくないが、最後までやり続けることは難しい。
諫言者の魏徴亡き後太宗は後継者問題、
高句麗に遠征し意義のない戦いをして有終の美を飾れなかった。
最後まで初心を貫き通す持続力と忍耐力を持つには、
「志を高め、心を高める」真摯に自とに向き合ねばならない。
禅語にに「百尺竿頭 進一歩」(無門関)(ひゃくしゃくかんとうにいっぽをすすむ)
意味は修行によって如何ほど高い境地に至ってもそこに安住してはいけないということ。
詩経の中に同じような言葉がある。
「白珪(はくけい)尚可磨」(はくけいなおみがくべし)
白珪とは上が丸く下が四角い完全無欠のきれいな玉を言うが、
この玉でもさらに磨き続けるようにという意味だ。
「一意専心」し続けることが自分を磨くことであるが、
誰でもができる技でないほど人間は弱い存在だと、
いまさらながら自分の非力を自覚させられる。
「初心わするべからず」世阿弥
皆さんは一意に努力し続けてるものお持ちですか?