西村恵信先生から「書」をいただいた。
ここに書かれていたのが「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」である。
江戸末期の仙崖義梵和尚(1837年没)の原書に残っている。
描かれているのは真ん中に柳が風でなびいていて、
左下に小さく座禅してる宗が書かれている。
文字は左に「堪忍」とかかれた構図になってる。
ことわざに「柳に雪折れなし」というのがある。
要するに重みに耐えて折れない。
そこから転じて、柔軟なほうが剛直よりも耐える力が強いという意味だ。
仙崖和尚の言いたいのは柳が自分だろう、風も自分だろう。
分別するな!そこにいるすべてを受け入れてあるがまま!
なかなかこの心境になれない。
「我」を離れる修練がいる。
それが座禅である。
「生きがいの創造」を書かれた出口日出麿さんは、
「蛙(かわず)に鶏(にわとり)の鳴き声を注文してもダメ、
うぐいすにほととぎすのように鳴けといってもアカンこと。
それぞれのものにとっては、それぞれ真なのだから、
これをいちいちけちつけていたらこの天地は成り立たない。
「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
風は柳の機嫌をとるためにのみ吹いてるのではない。
ねずみも人間の病原に恙(つつが)とかいう虫をとるという。
何が、どんなところで、どんな働きをしているやらわかるものでない。
在るままに在らしめよ、成るままに成らしめよ
このように書かれている。
この句の「堪忍」というこのは我慢することだではない。
我慢は利己心で自我が払拭されていない。
「忍」とは受け入れることだ。
風の吹くままに「流される」という主体性のない姿勢でなく、
「合わせる」と言う主体的態度だ。
ここに仙崖和尚のすごさを感じる。
「君はできるのか」と問われたら脱帽だ。悔しい!
皆さんはいかが味わいますか?