何のために努力するのか

投稿日:2015年2月27日 更新日:

薬師寺の安田暎胤長老と食事を一緒にさせていただいた。
在任中と故高田好胤元官長とコンビで執事長時代を含め36年間、
朝のお勤めを毎日4時に起床して続けられたそうだ。

不用意に「土日もですか?」と質問して隣の人に叱られた。
もちろん無休だ。

「凡人の私ではできませんね、どうしたらできますか?」と質問したら、
「願かけて修行することが「自我」をなくすことだよ!」とさらりと答えられた。

私は僧侶ではないから、4時から勤行をすることはない。
しかし、社会人の人も同じで、会社の出社時間が決まっていて毎日勤めをしている。
弊社も工事関係の人は7時前には工事現場に出発し、
雨の日も風の日も休むことなく出勤している。

仏教では「サンガ」と言って僧達が集団でともに学ぶように出家する。
薬師寺では般若心経を唱えるとき「仏法僧」に帰依すると誓う。
「懺悔文」という自分を反省する文を読み、
仏法僧に帰依する「三帰三竟」を唱えてから「開経偈」を読むのが慣わしだ。

単に受身の呪文として読むのではない。
自分が自分に「願」かけて自分の意志を持って唱和する。
これには努力と意志がいる。

大半の人は同じように朝起きて仕事をし、夜には夕飯を食べ眠る。
しかし毎日4時に起きるには、前の晩の行動に気をつけ、暴走しないことが寛容だ。
自制心が働き自らの欲望や本能に振り回されない自分との戦いだ。

私のような凡人は誰からも催促のない「願」をかけては生きてはいない。
「社会から課せられていると思う自分」にならないとと相対的で利己的な意味で努力する。
ここが違うのだと脱帽する以外ない。

なぜ努力するかの目的は違うが、
一般に努力され成功された人には3つの共通点がある。
1.戦争体験で生死をくぐってきた。
2.病気持ちで健康に苦しんできた。
3.食べるものも食べられず貧困に苦しんできた。

こんなことが動機になり「発憤」し誰にも負けない努力をされた。
努力によって具体的なものやお金を得たり、
健康は得られなくてもハンディーを乗り越えるたくましい精神を磨かれるのである。

もともとの動機は自利だ。
しかし、次に人間界だけの気づきでなく、もっと大きな自然の恵みに気づくのである。
自利が実現できたのも多くの人たちの「縁」、
あるいは大自然の恵みがなければ実現しない。
仏教で言う「自利利他」である。

朝4時に起きるのは自利であり、同時に利他の精神がなければ努力し続けれないと感服した。
よく幼いころ両親に感謝しろといわれたが、
両親も人間だから矛盾したこともいうし行動もするので素直に感謝できなかった。
最近、誰よりも子供のために時間を使い利他行してくれたからこそ自分があるとつくづくと感じる。

認知症の母の見舞いに行ったら「お父さん」(息子がわからない)が来たと言い出す。
そして、グループホームに入ってることで、
「みんなに迷惑かけてるが快適や」と母親が頭下げて「感謝してる」という。
嬉しいより、いつまでたっても子供のことを考え負担にならないように気遣う親の姿に素直な自分が出る。
いくつになっても親は「努力して利他行すること」と言う生き方が自利利他だとを教えてくれている。

少しでも親に恩返しできたらいいと思う今日この頃だ。

皆さんは努力の発憤の動機は何ですか?

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