朝、会社に行くときに「雨が降りました」
すると「ツイてない」「会社に行くのが億劫だ」と、とっさに考えてしまう。
これがマイナス感情を自分に刷り込むことになる。
心が元気な人は「出掛けに降ってくれて、傘なしでずぶぬれにならないでよかった」
「さあ、でかけよう」こんなプラス発想するのである。(現実絶対肯定の姿勢)
心は環境に反応するものであるが、
同時に自分の考え方次第で現実の環境を受け入れ対応策考えてプラス発想にもなれるのが人間だ。
物事を成就し、大成する人は、プラスに物事を受け取る訓練ができていて、
習慣化されているのもうなずける。
たとえば、みんなの目の前で上司に叱られた人は、
普通以下のように反応する。
「明日から会社に行くのが恥ずかしい」「他の人の前で叱るなんて最低の上司」
自分の中でマイナスの感情が働き、環境を否定する暗示をかける。
当然、「その環境には行きたくない」という拒絶の心を作りその場には足が向かないのである。
しかし、プラス発想の人は「厳しく叱ってもらえるほうが二度と失敗しなくていい」
「叱ってもらえるのは期待されているからだ」と自分の成長にプラスになると考えるのである。
意味するところは、社会の中で起こる人間関係を消極的に「悪い面」から捉えるのでなく、
積極的に自分にとって「良い面」として捉える習慣ができてるのである。
自分の意識に「良い面」見る習慣を自分でつけることが心を元気にするコツだ。
仏教では「我」を捨てろといわれるが、「我」には二つある。
1.現実を否定する「我」
2.現実を肯定する「我」
人間は動くから、人とあったりモノと出会う
そのときに、どんな人も現実を否定する「我」が一番先に出てくる。
本能のセンサーが働くようにできてるからだ。
言い換えると自分を守るセンサーだ。
腐った食べ物を食べたら、飲み込めないで吐き出すようなものだ。
精神も同じセンサーがあるのだ。
自分以外の価値観(損得、好き嫌い、志)は受け入れないようにできてるから、
他人の言うことや社会環境、自然環境も、最初は否定的に受け入れないセンサーが働く。
青春時代の反社会的な行動(非行)がこれに当たる。
しかし、もう一方で「より良くなりたい」「向上したい」という欲求もあり、
工夫する「智慧」も同時にわいてくるのである。
(社会の中で自分を守るためにより優位に立ちたく努力する「我」が生まれる)
その「向上したい、より良くなりたい」という未来志向の「我」こそが元気になる「我」である。
この「我」が強ければ強いほど現実を肯定的に受け入れ、
現実の課題を智慧出して行動し解決し与えられた環境でなく、
快適な環境創造する「我」が育つのである。
この「我」は本能的な「我」と戦うために誰にも負けない努力がいるのである。
しかし、人間は適応力があるから、習慣化すると苦痛はなくなり快適になるようにできてる。
人間の本能的センサーは快適しか受け入れないからである。
この二つの「我」に苦しみ、迷い、悩んでるのが凡人の私だが、
否定的な自我をいつでも手放せる誰にも負けない努力をプラス発想を習慣化したいものだ。
皆さんも創ってみませんか?現実を絶対肯定して受け入れる習慣。