近江聖人、中江藤樹は『全考の説』を唱えているのである。
宇宙の根源は『考』であり、
『考』の実践こそが『大学』に書かれている明徳を明らかにすると断言する。
「身の元は父母なり。父母の元は是推して始祖にいたる。
始祖の元は天地なり。天地の元は太虚なり」
「万人皆天地の子にして、我も人も人間の形あるほどの物ことごとく兄弟なり。」
中江藤樹は「考経」を最も尊んだ人物でもある。
藤樹はさらに「考」は「愛敬」だという。
「愛」=ねんごろに親しむ意味
「敬」=自分より上の人を敬い、同時にしたの人を軽んじたり、馬鹿にしない意味
「翁問答」より
1.「人間千々よろずのまよい、みな私よりおこれり
わたくしはわが身を、わがものと思うより起これり。」
意味=人間のさまざまな迷いは、みな私心よりおこるのである。
私心は父母から授かった身体を自分のものと思うところからおこるわけである。
「大学考」より
1.「明徳をくらます病症多端なりといえども、畢竟その病根は意なり」
意味=明徳をくらます病気の内容は、さまざまであるけれども、
つまるところその病気の根源は、私意にある。
2.「けだし意は心の偏る処なり。誠意と絶四(論語の子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし)
の意ともと異議なし。いかんとなれば聖の聖たるところ他なし、意なくして明徳明らかなるのみ」
意味=そもそも意は心の偏りである。意を誠にする意と、四を絶つ意とは、まったく々意味である。
なぜならば、聖人の聖人なるところは他でもない。
私意が取り除かれて、明徳をあきらかになるわけである。」
「考」の元は人間は自然、宇宙から生まれたということになり、
人間の小ざかしい理屈を超越して、本来心の奥に内在する自然の理法を引き出子、
その良知(良心。仏心)から発することを実践するのが「考」だと諭す。
実に明快でわかりやすいが、「できるか」自問自答すると簡単でないことは確かだ。。
両親への恩に自分の仕事もかなぐり捨ててやる覚悟がいる。
私意をまったくなくす努力が要る。(仏教では無我)
藤樹は実践した。
私の記憶するエピソードを二つ紹介する。
1.峠に馬引きがいた。
お客さんを宿まで運びかえってみると50両のお金を忘れていた。
馬子はすぐに引き返しお客さんに渡した。
びっくりしたのはお客さんの武士だ。
「なぜ知らん顔してとっておかなかったか」と聞かれたとき、
馬子は「中江藤樹先生に誠実を旨としろ」と教わっているといったそうだ。
2.お父さんはなくなって墓の中であるが、「カミナリ」が大嫌いだった。
ある日急に曇り出しまめになり、雷が鳴り出したら、藤樹は自分の羽織を墓着せ掛けたという。
私たちの先人には素晴らしい人たちがいる。
学校で、親からこんな話が受け継がれているだろうか疑問だ。
仕事人生を「仕事道」といって、
心のあり方を問う文化を生んだ。
華道であり茶道、武道も同じだ。
資本が一番の資本主義でなく、
道と心、人情と相互扶助の助け合い、和を持って尊しとする文化が先人によって築かれた。
皆さんは人本主義の文化どう感じますか?