仏教の言葉で『一如』というのがある。
日本仏教語辞典では『一』は不二即ち絶対を意味し、『如』は不異すなわち不等の意であり、
真実で永遠に普遍であり、あらゆる差別相を超越した絶対の真理。
若いころ恩師小田切先生に良く叱られたのは『分別知』を離れよでありました。
自分と他人は違う。
こんな当たり前のことを分別するなというのである。
「この先生は馬鹿ではないか?」と思ったのも事実である。
でも、一方では『人間はみな同じだ』だからこそ社会が秩序正しく行くし、
協力仕合いによって、大きな成果も生むのこともできる。
そこに居たのは、分別する分別しないを分別してる自分がいた。
さて、現実の資本主義社会では競争を肯定し自由を獲得する方向に舵が切られてるが、
一方ではお金は人間を支配し、自由どころか疎外されて、心を奪われロボットになってしまう。
疎外されてると思い込んだ若いころは、
共産主義こそ平等で正しい主義だと考え社会批判ばかりしていた。
しかし、共産主義もみんなのもので私有財産を認めないので、
非競争でも暮らせるから、人間が怠惰になって想像力や工夫が阻害される。
不完全な人間が考えることには一長一短があるとつくづく実感した。
小田切先生は「社会の構造に影響されない人はないが、
その中でも毅然と独立自尊の自分を磨け」とよく言われてた。
その意味を伝えるために仏教用語をたくさん使われた。
時には仏国禅師の、
『雲晴れて後の光と思うなよ もとより空に有明の月』
「普遍なものがあるから晴れたり曇ったりするんだ。
この普遍を掴み取って一如を実践しろ!」と先生は檄を飛ばされた。
人間が生きるには農作物をつくり(生産)、あるいは家畜を飼育し(生産)、
それを食べて命を保つ。(消費)
生産と消費をあくなき繰り返してるのが人間が生きることだ。
しかし、人間はより多くの生産物を作れるように工夫し技術開発した。
ここから、奪い合いが起こる。
生きることが、肉体的なウエイトから精神的な自己実現を求めるようになる。
原始の社会では個々人には名前さえなく共同で生きていたが、
モノが豊かになれば個々人を明確に分別し区別しだすようになった。
富むもの貧しいもの、奪うもの奪われるもの、支配するもの支配されるものである。
この分別の時代を何とか調整しようといろんな社会統御の仕組みが考えられた。
奴隷制社会、封建社会、絶対王政、資本主義、社会主義などなどである。
先生は社会体制はは変化する雲と同じだ。
自分自身を知行が合一する『一如』を獲得し、
普遍から変化を楽しむ東洋的な実存的なものの見方を教えられていたように察する。
皆さんは『一如』についてどう感じられますか?