山岡鉄舟が清水次郎長に送った言葉で、
生涯大切にし、山岡を自分の師と仰ぎ、
千人も子分のいる侠客が清水に茶の栽培をしたり、
たくさんの社会事業を行った。
1868年明治天皇の侍従として山岡鉄舟が仕えていた。
賊軍となった榎本が咸臨丸で品川から就航したが、難破して清水につき死者が出た。
次郎長は朝廷(官軍)からとがめられること覚悟で死者を葬った。
その裁きに山岡が命じられ次郎長と出会うのである。
山岡が問うた。『なぜ賊軍を弔ったか?』
次郎長は『敵も味方も死んだ後は同じ仏です。
死骸で海がふさがれては第一、港のものが困るのです。
港のためと仏のためと思って致したことが、もし悪いと仰せになるのなら、
どのような咎めもお受けします。』
鉄舟は感服し、さらに尋ねる。『どういう心得で敵を倒すのか?』
次郎長答えていわく『刃先をあわせたとき、
ススキが風になびくように、
自然に次郎長のするがままに任せているようならば、
こちらは、すばやく刀を退いて逃げてしまう。
逆に反発してくるようならば、間髪をいれず突き進んで斬った。
弱いやつには余裕がないからすぐ反発する』
鉄舟は『お前は自然に剣法の極意に達してる。』と感嘆した。
そこで次郎長が『悟りとは何ですか?』と問うた。
鉄舟は『精神満腹』と答えた。
これが次郎長、生涯の座右の銘となり、
鉄舟の勧めもあって、社会事業を手がけたのである。
鉄舟の恩師品川先生に薫陶を受けた言葉に、
「モノが貧乏で心が貧乏を『貧乏貧乏』という。
心豊かなのは『貧乏金持ち』という。
だから『金持ち貧乏』にならぬように」であった。
13歳で三島の龍沢寺の星定和尚に禅を学び、
山岡鉄舟が問答で読んだ句が、
『晴れてよし、曇りてもよし富士の山
元の姿はかわらざりけり』
皆さんは次郎長と幕末三舟(海舟、鉄舟、泥舟)の一人との出会いいかが感じますか?