1900年にドイツで生まれたエーリッヒ・フロムが「愛するということ」
のなかで愛の本質について以下のように書かれていた。
実に腑に落ちる文章に感動したので皆さんに届けたいとブログにしました。
彼は「新フロイト派」といわれる。
それは、彼が生まれた時代背景が20世紀の時代であることが大きく左右してる。
もちろん彼はマルクスや「プロテスタンティズムと資本主義」のウエーバーを接合し、
社会学的な見地で「愛」を捉えているからでもある。
『愛の本質は、何のために「働く」こと。「何を育てる」ことにある。』
こんな風に断言しているのである。
「愛と労働は分かちがたいものだ」
「人はなにかのために働いたら、その何かを愛し、また、愛するもののために働くのである」
というのである。
「だからこそ愛するものに配慮と気遣いがいる。」
私が紹介したいもう一つは『義務と責任』である。
フロムは言う。
「愛には責任がいる」
「今日では責任というと。たいていは義務、つまり外側から押し付けられるものと見なされている。しかし、本当の意味での責任は。完全に自発的な行為である。」
「責任とは他の人間が、表にあらわすにせよ、何かを求めてきたときの私の対応である。」
「責任があるということは、他の人間の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。」
私は「責任とは」自分のうちからの自発的な行動であるということにつよく感動した。
日本人はとかく「謙虚」が尊ばれるので、
自発的に発言するのは自己顕示欲がつよいと思われる。
だから、できるだけ、意見を言わない態度が謙虚で和を乱さないと勘違いしているように
感じる。
その行為は、視点を変えてみると積極的に責任を取る覚悟ができていないという態度でもあり、現実に参加せず傍観者的な態度ともいえるのである。
中国の政治家に屈原という乱世を生きた憂国に士で、
有能で廉潔白な人が周囲の反発を買って追放されてしまう。
屈元は「今の世の中はすべてが濁りきっている。
その中で自分はこれまで清く正しく生きてきた。
然るに私は官を追われ、無念の日々を送っている」と嘆いて川に身をなげ死ぬのである。
この生き方に天龍寺の元官長の関牧翁老師は、
「世の中が濁ったら、自分も一緒になって濁ってゆけ、
そして濁ったなかに入って、そこを超えて行くんだ。
死んでしまえばお仕舞いだ。」
こう喝破された。
愛するという自発的行為は責任感だ。
言い換えると覚悟だ。
この決心があってこそ、仕事や人生に愛が生まれるのである。
仮に、現実が濁っていようがいまいが、飛び込んで蓮の花咲かせる勢いと勇気がいる。
関牧翁さんは「死んでしまえばお仕舞い」といわれ、
道元は「冷暖自知」と現実に飛び込んで主体的に自分の命を生かせと喝破する。
表面的な愛で自己防衛する自分もいるのも確かだ。
仕事に徹しきる自分でありたい。
皆さん愛の本質についていかが思われますか?