愚者は放逸を楽しむ

投稿日:2012年2月20日 更新日:

愚者は放逸を楽しむ
人間の原型は『本能と欲望』で出来てる。
みんな平等だ。
ところが死ぬ時には随分違う。
お金持ちが偉いとか大臣が偉いというのでなく、
またお金を持つことが悪いわけでもないし大臣を志すのもかまわない。

ただ大事なことは、自分がそうなりたいと願い誓ったような結果であったかどうかが重要だ。
それは自分が主体的に世間と言う土俵の真ん中で生きた証だからだ。

目標はなんにしろ自分が主体的にいき幸福感に満たされるのは最高だ。

でもひとつ問題が起こる。
それは社会で生きていくには生まれたままの『本能と欲望』むき出しで、
それを強化することで実現すれば最高〔アウトローの人ならかまいません〕だが、
それでは必要条件は満たしてるが充分条件は満たせない。

充分条件とは世のため人の為に役に立ち誰もが認めて得た目標であることだ。
法律を犯し、人を殺して得たものでは最高の幸福感ではない。

人間が人間になるのは社会環境で学び教育されるから人間らしくなる。
もし、狼に育てられたら狼らしくなるが人間らしくならない。

実は『理性と良心』に従った行動で達成されたものであれば充分条件が満たされる。
これを達成するには、生まれてもってる『本能と欲望』を一番にするのでなく、
逆に二番にして『理性と良心』一番に利他行し自分を大転換させねばならない。

禅寺にいくと以下のような言葉が書いてある。

『生死事大  生き死について仏法では一大事だ。
 無常迅速  時は刻々と過ぎるのだから迅速にせよ。
 各宜醒覚  各々はこのことに目覚め坐禅修行に励め。
 謹莫放逸  謹んで自分の主体性〔心〕をほったらかしにするなよ。』

「愚者は放逸を楽しむ」とは
私のような凡人はすぐ誰にも負けない努力を怠り、怠けることを楽しむと言うことだ。
生まれたままの本能と欲望に生きるのことが「あるがまま」と勘違いすることだ。

私の友人は人間は『愚かで、怠け者で、欲張り』こう言い切る。
ではどうすればいいかのかと問えば、
『本能と欲望』を行動力のエネルギーに変えて、
『利他行する私』を引き出し磨く努力するをことだと断言する。
ダイヤモンドも磨かなければ光らない。自分でだ。
ホントにみんな出来てるのか?
謹んで『拝聴』せざるを得ない。

禅語に『随所に主なれば いたるところ真なり』とある。
道元禅師は『冷暖自知』自分で暖い冷たいは自分のからだ動かして知れと主体を強調する。

みなさんは放逸どう考えますか?

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