誇りある自己規制
『辛い、悲しい、苦しい』といえるのは、現実を受け入れた時だ。
東北の震災があって一年になる今日、
生きることを根本から考えさせられる日でもある。
福島では今も放射能の汚染で帰宅できない人たちがいる。
風評被害が蔓延し、石材も汚染されてると原石を採掘してる業者の生活が成り立たない。
具体的に何ができるか考え行動する以外ない。
そんな状況で『家も思い出のアルバムも仕事も、みんな無くしたが命がある』
『生きてることに感謝して、行動すれば何とかなる』こんな言葉を、テレビ番組の
特集の中で聞いた。
『胸が熱くなった』と同時に私は恥ずかしくなった。
今置かれてる環境に感謝し、
いのちのレベルで真剣に生きてるかを突きつけられたような気がしたからだ。
西洋では道徳は教会で教える。
わが国では道徳や倫理観は生まれたときから持っているように見える、
といわれるのは「国家の品格」の著者・藤原正彦さんだ。
万引きしたら親を泣かせる。
先祖の顔に泥を塗る。
お天道さんが見てる。
こんな発想が身体にしみこんでいた時代があった。
平等とい観念も西洋流の計れる尺度でないわが国流がある。
それは、何かおみやげをもらうと必ず神棚や仏壇にお供えをもって行く、
しばらくして、母がみんなに配る。
そのとき、母はお手伝いをした子供にに多くやる。
『平等じゃない』と数の多い少ないで抗議しても、
母は毅然と『仏さんがお手伝いした人に多くやれと言った』と、
意味までつけて判断の正しさを仏さんに託すのが常だ。
著者は『法治国家と言うのは恥ずべき国家で、
高貴な国家というのは道徳とか倫理とかによって、
言動を自己規制する国だ。』と断言する。
江戸末期から明治にかけての日本にはそんな誇りがあったし、
西洋では騎士道に見られるという。
論理でなく情緒を大事にした誇りを今こそ、
温故知新で学び取ることを啓蒙されてる。
私も同感だ。
技術が発展し、飛躍的に経済成長し、モノが豊かになったのは事実だ。
しかし、論理的なことが正しいという至上主義に陥ると人間の身心のバランスが崩れ、
間違いを犯す。
一年前に震災の被災者が我慢強く愚痴も言わず身を寄せ合って、
口々に『私より大変な人がいる』と思いやる態度をみて、
眠っていた「誇りある自己規制」が今でもできることを証明して、
われわれに「誇りある自己規制」を身をもって伝えてくれた。
自己犠牲ではなく、あくまで自己規制だ。
仏教で言う利他行だ。
他人を一番に救い、自分を二番にする。
決して自分を犠牲にするのでなく、布施の気持ちだ。
みなさんは今日何を感じましたか?