生きること死ぬこと
家内のお父さんが亡くなったのは約43年ぐらい前になる。
父の死に「私がこんなに絶望感を持つぐらい悲しいのに他人はなにもなかったように生活してる。」
これが実感だったといっていたことを思い出した。
還暦を越える年齢になると『死』を真剣に向き合わざるを得ない。
『あすは死ぬ 景色も見えず 蝉の声』といように人間以外は死を事前に考える事はしない。
人間だけが生きたいが故に『死』を想像し恐れる。
だから真剣に向き合おうとしないのも事実だ。
では、真剣に一度向き合ってみようと考えた。
『死』は自分にとって三つある。
1〕三人称的な人の死はそれほど痛みは無い。
それはその人の『存在』と『機能』喪失して誰かに置き換えることができるからだ。
家内が町を行きかう人がいつもの生活してると感じたように。
2〕二人称的な人の死は悲しくて辛い。
それは『あなた』とか『お前』と言う支えになっていた人が死に、
半分以上の自分の喪失であるからだ。
同時に『死』の現実から恐怖や不安のイメ-ジが起るのだ。
3〕一人称的な死〔自分の死〕には四つあるというデ-ケン神父〔上智大学教授〕
A:死ぬまでの肉体的苦痛
B:精神的苦痛〔この世に生きたい惜別の苦〕
C:社会的苦痛〔家族や職場に対する心配〕
D:霊的苦痛〔人生の総決算の苦、価値があったか、無価値だったか、後悔の念〕
こんなことが冷静な今の自分だから考えられる。
私が生死をさまよう手術をするときはすべてを放り出した『なるようになる』それが心構えだった。
『生かされてるいのちに感謝』する以外は受け入れられなかった。
生死をかたらせば白隠禅師しかない。
『若い衆や、死ぬがいやなら今死にやれ』と、
自分で自分の死を先取りしてしまえというのだ。
そうすれば甘っちょろい死はなくなる。
白隠禅師の法の上の祖父の至道無難禅師はもっと強烈だ。
『生きながら 死人となりてなりはてて 思いのままになすわざぞよき』
一度死にきった人は死から開放された大自由人として生涯を送ることになる。
だから禅宗では『大死一番 絶後に蘇る』といって、
一度人間的に死ぬ体験をすることを良しとする。
理屈はわかるが人間の本能は厄介だ。
出口〔死〕から『生きること』考えたら、
生きることも案外簡単かもしれない。
死をこんなに真正面から考えたことはなかった。
みなさんは怖くないですか「死」?