利について

投稿日:2012年5月6日 更新日:

利について
「利の元は義なり」といわれるように、
義を通すことが大事であるというのが儒教の教えだ。

江戸時代は「武士は食わねど高楊枝」といってお金は商人という身分の低い人間が扱うもの、
卑しいものとされていた。
京都では石田梅岩が「石門心学」を唱え、商人の利益は武士の録に同じだと教え、
物資のないところへあるところから運び流通させる大事な仕事だと訴えた。

また大阪では商人5人が集まって中ノ島に懐徳堂を開き、
武士の教養を身につけようと四書五経を学んだ。

論語の子罕(しかん)第九に、
「子 罕〔まれ〕に利を言うとき、命と与〔とも〕に、仁と与〔とも〕にす。」
意味=孔子先生がまれに利について語られる時は、
天命や使命とともなら良いという条件と仁愛〔思いやり)言い換えると利他行の結果なら良いということだ。

そのために四絶といって四つを絶つことだと、このくだりの後に書いている。

「子、四つを絶つ。意なる毋れ(なかれ)、必なる毋れ,固なる毋れ、我なる毋れ、と。」
意味=己の意ばかりになるな、決めたことにこだわるな、執着するな、利己的になるな、と」

日本はタテ社会を重んじ、先祖を敬う文化を創ってきたが、
情報化社会はタテ文化をヨコ文化に加速度的に変化を余儀なくしてるのが事実だ。

若者は上下の関係がこわれ、ヨコ文化で育ち敬語や丁寧語の使い方だけでなく、
人間関係の距離感がわからなくなって居る。

経済の右肩下がりの20年間に夢や希望をもてなく、
成功者にあこがれるより引き摺り下ろしたい願望が勝ち、
権力者を尊敬する気持ちより、自己利益のために権力乱用してると考える傾向がある。

民主主義とは国民は国に何を言ってもいい、
国には貰う物はみんな貰い払うもんは払いたくないと、
依存していては国がつぶれるのではないだろうか?

国や公を語る時には私意で語れば利害関係の戦いになることは必定だ。
だからこそ国民として、四絶を心がけ国家天下の方向を考えたいものだ。

欧米のように自分の利益の分捕りあいのような議論もあるかもしれないが、
孔子先生が言われるように、天命に基づいたり使命とともにあり、
公共心〔公共の利益〕からの発言なり行動が取れる大人に成長する必要を感じる。

日本人は日頃、村社会で掟を守ってきて不自由だったため「旅の恥はかき捨て」といって、
一時的に誰も知らない旅先では開放的になる文化であったが、
昨今は電車の中で化粧はするのは当たり前で自分の利益が一次的でなく、
どこででも自分中心の言動を「恥」と思わない人間が増えた。

社会より個人が優先する社会になっているにもかかわらず、
社会を何とか理想的にと考え政治家は議論してる。
何かもともこも無くなってしまうような危機感を感じるのは私だけだろうか?

みなさんは公共の利と自分の利どちらが先ですか?

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