心の開放

投稿日:2012年5月14日 更新日:

心の開放
先日、安藤忠雄さんが出演しているテレビ番組を視た。
若者に、もっと世界に目を向け心を開こうと呼びかけ、本を出版した紹介だった。

学歴がなく建築の世界に飛び込んだ自分の人生を語りながら、
今の若者は心が鎖国状態だと言い、閉鎖された心を開放するように元気を出すように
訴えていた。

明治維新の時も外圧によって「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と、
過去を捨て、新しい欧米に「和魂洋才」と貪欲に学んで新しい日本を創ってきた。
IT技術が発達した情報化社会という外圧がやってきてる事は確かだ。
日本は今、閉鎖から開放へチェンジすることが要求されている。
一日中パソコンを使い情報の量をさばくのに精一杯で、誰とも話さない仕事をしてる。
会話すればロボットのようにマニュアルどおりに決まり文句を言うという、
人間が疎外されてる状態だ。

心を開放するとは一体どういうことをすれば良いのか考えてみる。
相撲のように「心技体」の調和が取れ、土俵の真ん中で自分で感じ自分で考える。
「体」=行動力、練習力、体得することだ。
「技」=知識を蓄え技術力、技を磨くことだ。
「心」=私利私欲は自己への閉鎖心、これを逆に開放的な利他心を保つことだ。
    言い換えたら、志に生きる。天意に徹する〔公の心〕

さて、先日ある会議に出て議論されていたが、
「定款に違反した行為があったから罰則が必要だ」と、
今までの苦労してつくりあげた実績とは関係なく、
また悪意があってやったわけでもないのに、
ルールを建前に言いたい放題の発言が成されていた。
これが言論の自由なのだろうか疑問に思った。

自由の国アメリカでの「自由について」の講義の第一は、
「自由の規制」についてだ。
その話しの内容は以下のとうりだ。
「西部開拓時代ように馬で移動し、どこでも自由に移動できたが、
 車社会になった現代はアスファルトの道を走る事になる。
 だから、みんなは自由でありたいなら、
 規制を守る不自由を受け入れなければならない」

この説明はわかりやすい。

だからアメリカ人は「公」=みんなのいる場所では自由でありたいために規則は守るのだ。
ところが日本ではどうだろう?
逆だ。自分の知り合いがいない場所では「公」のルールも守らないのが現状ではないか?
電車の中の化粧の姿は、私が小さい時にはなかった光景だ。
男性の車からのタバコのポイ捨ても「公」の意識がない。

心を自分の私利私欲に合わせるのは利己主義とわがまま主義だ。
欧米の個人主義ではない。
何故なら私たちにはキリスト教と言う文化で育ってないからだ。

夏目漱石は個人主義という本を書いたが、
亡くなる前には「則天去私」という処に行きついたのは何を意味するのか?

フランスの哲学者アランの幸福論にも、
目の前の勝敗でなく志を持ち続ける行動が重要という。
「人は、意欲し行動する事によってのみ幸福だ。」
「自分のことをかんがえるな。遠くをみよ。」

心を開放するとは自分が幸福感で満たされることだ。

皆さんは如何考えられますか?

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