「我」について

投稿日:2020年11月19日 更新日:

インドでは「我」のことをアートマンと呼んでいる。
この「我」を全面否定したのがお釈迦様である。

「我」とはエゴのことであり、当時の説明では「常・一・主・宰」である。
「我」=自己は変わらなく常にある単一で主体的で宰相のようにできる存在
こんな自己はあり得ない、すべてが「共生的関係存在」(縁)であると絶対的独立存在でないことを主張した。
仏教の根本原理は「諸法無我」で縁によって繋がっているというのである。
そして常に状況によっては変化する「諸行無常」であるというのである。
「無我」「無常」「縁起」で成り立つので「非有非無」という哲学的な矛盾したといもある。

現代科学での量子論や相対性原理を思わせる。
量子コンピューターは質量のあるのとないのが同時に存在すると言われている。

仏教で「有る」とは独立した存在で変化しないものと考えるとそれは「非有」になり、
「無い」とは全く無いのかと言えばエゴの要素は無いが論語でいう「意なく必なく固なく我なし」と表現する「無我」はある。
有るという「我」はなく、あえて言えば「無我の我」ということになり「非無」である。

道元によれば「仏道をならうというは、自己をならうなり。
      自己をならうというは、自己をわするるなり。
      自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
      万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心を脱落せ
しむるなり。」
要するに「我」意識的自我(エゴ)を消し去って、無意識の自己を自覚することだというのである。
それには身も心も一切の束縛から解き放たれた「無我」に目覚め宇宙全体と一体化する。

禅では坐禅でそれを体得せよというのだが、一般の生活する者にとっては難しいが、
簡単に同じ心境が得られるとすれば、一心不乱に人の話を聞くことだ。
しかし、ただボヤっと聞くのでなく、何かに活用できないかといった姿勢で聞き入る、
教えてもらうという聞き方をすると同じ心境が得られるというのである。

皆さんは「我」についての仏教的な解釈いかが思いますか?

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