「道元の覚悟」に思う

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道元は実に面白い。

なぜ人間には仏があるというのに修行するのかが大疑問で、自分の師匠が病気にもかかわらず、比叡山を飛び出て宋の国にその疑問を晴らしに行くのである。
そこで出会ったのが如浄禅師だ。
ある朝、弟子たちが坐禅をしている時に一人の雲水がコクリコクリと居眠りをしてしまった。
師匠の如浄禅師が「身心脱落せよ」と喝を入れた時に、道元は悟ったのである。

道元の執筆した「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「現成公案(げんじょうこうあん)」の中に、「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」という言葉があります。
「仏道を学ぶというのは、真実の自分を明らかにすることである。真実の自分を明らかにするというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自分に捉われた自分は本来なかったことを覚ることである。自己を完全に忘れると、万法が真実の自分であることがつまり自他の枠組みがなくなったことが明らかになることである。(自他不二)」という意味です。

このことが理解できるから、身心脱落なんですね。
身も心もある自己を捨てることができれば、無我の自己を手に入れられるんです。
しかし、一回手に入れたらズーット続くのではなく、すぐ身心の刺激を受けて出来た自己が出てくるのも事実です。

そこで道元は「利行は一法なり」と言うのです。
「愚人おもはくは、利他をさきとせば、みずからが利はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。」
「世の愚かなる人々は、他人の利益を先にすれば、自分の利益がなくなると思っている。だが、事実はそうではない。『利行』とは自分をむなしくして他の利益を図る行為であるから、自利も利他も一つになったものである。あまねく自分にも他人にも利益するのである。」という意味です。

道元は自利も利他も「同時である」と言い切る。
相対的に区別(分別)したりしないで、表裏が一体で同時だというのである。「善悪は時なり、時に善悪に非ず」とも表現している。

実に道元の表現は痛快である。

皆さんは道元の「自己をわすれる」を実行して真実の自己に逢っていますか?

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