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「自我と自己」について

投稿日:2021年3月17日 更新日:

私たちが生きている世界には「生死」があり、仏が住んでいる世界を「涅槃(ねはん)」という。幸不幸の中で生きているのが人間で、静寂な世界で静かに暮らすのが仏だ。

道元は衆生に仏性があるのになぜ修行しなければならないのかを大疑問に思い、修行僧はじめ阿闍梨の師匠にも尋ねたが自分が納得する答えを得られず、当時の宋の国へ渡る。
そこで如浄禅師に出会い、如浄禅師が坐禅中に居眠りする雲水に「身心脱落せよ」という言葉を発したときに目覚めたと言われている。

人間界    仏界
煩悩     菩提
生死     涅槃
迷い     悟り
衆生     仏 
我々凡夫はこのように分けて考えるが(分別知)、これが表裏一体(無分別知)と心得ることだと道元は言う。
煩悩即菩提
生死即涅槃
迷悟一如
衆生本来仏なり
いったいどう受け取ればいいのか。

仏教には三法印という教えがある。
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
この「我」が何かといいますと自我意識ですね。
この「我」を取り去らないと全てが逆に見えているか、自分の色眼鏡を通して見ているというのだ。
そうだと知ると本来の自己を探したいのが人情だ。禅では坐る目的を「己事究明」という。

ここで「我」を取り去るには元々仏性を持っているからこそ厳しい修行して「仏」に成りたいというのが普通の人間的な考えだ。
しかし、道元は全く逆を考えたのである。自分の中には仏がいるのだからこそ修行をさせてもらえるというのである。
「身心脱落」とは身も心も捨て去ることであるが、無くなるということではなく、人間としての分別を持っていながら、それに左右されない自己を自覚することだ。
そのための修行だというのである。

それを『正法眼蔵』では「仏のいえに投げ入れて」と記されている。
仏さんが飛び込んでくるというのだ。言い換えると「仏になりきる」ということだ。
するとどうなるか、「力も入れず、心もついやさず、生死を離れて仏となる」と言い切っている。
自分の方から宇宙の真理(仏)に悟ろうとするのを”迷い“といい、宇宙の真理(仏)から現成(現実)を見るのを”悟り“だというのである。

もう一つ奥深い言葉に「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」というものがあるが、自他という区別、差別、対立の分別がなくなるという。
少し詳しく書くと、「自我」というのは自分の欲している自我と、他人(自分の頭の中にある他人)から見られている自我があり、その両方ともを気にしなくなる。
余談だが、道元は他人を気にしなかった。
永平寺で火事が起こった時に、雲水が坐禅する道元に「逃げてください」と言ったのに平気で「私は法を伝えにここにいる」と言って耳を貸さなかったそうだ。

さて「我」とは「常住・一・主・裁」、すなわち常住で単一で、自在であって、断割したもの、「仏」とは仏教の根本原理の三法印「無我」「無常」「縁起」を体得し自由自在の主人公になることだ。
よって修行ができる喜びになるというのだ。(この楽観主義的論法なら極楽が実現する)

皆さんは道元の修行の意味どう思われますか?

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