「八不中道(はっぷちゅうどう)」という言葉が竜樹(りゅうじゅ)の「中論」にある。
また「三論」にも書かれている。「中論」の冒頭に次のように書かれている。
「不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、不来にして亦た不出」
意味=「生まれもしないが滅しもしない、常時でもなければ断裁されてもいない、一でも無ければ異なることもない、来てもいなけれど出ていってもいない」
要するに両極端はないということで、すべての存在は相依相待の関係であり、他から独立してそれ自体として存在するものは一つもないと仏教では諭す。
八不=破邪(はじゃ)
中道=顕正
と表現され、凡人の我々は八不と苦しみを抱くようになり、縁(相即相互)によって成り立っていると悟れば中道を歩む。
だから今の自分は一個人としての独立存在ではないと仏教では否定する。
これが「空」であり、「無自性」である。
恩師小田切瑞穂先生に華厳経にある「非非想」の論理、現実観察の二重否定を教わって、「教外別伝(きょうげべつでん)」「不立文字(ふりゅうもんじ)」、言葉に振り回されるなと叱責された記憶が蘇った。
事実を想起する、その想を否定する「非想」、さらに「非想」も否定する「非非想」、これが如実だというのである。
現実と自分が一体となる。そこには人間の観念が入る余地がない。
無自性だ。空だ。道元流の「身心脱落」状態だ。
縁とは「相互に関連しあって」と言う意味。
起とは発生・生起することという意味。
初期の「雑阿含経(ぞうあごんきょう)」の「十二縁起」が意味するのは以下の通りだ。
心に
1.無明(無知)というものがあって
2.行(その心が動き)
3.識(意識が活動し)
4.名色(心が見聞きするものに名と形が伴い)
5.六入 それらを(眼・耳・鼻・舌・身・意)の感覚器官によって
6.触(対象に触れ感じ)
7.受(感受し)
8.愛 それぞれに愛着(渇愛)が生じ
9.取(執着ができ)
10.有(生存があり)
11.生(生命があり)
12.老死(にいたる)
これは人間を無明から発生順に説明しているのだが、逆に考えたら、発生の根源の無明をなくせば煩悩の迷いがなくなるということだ。
仏教が「智慧と慈悲の教え」と言われるのは、「知足」を知り、己で苦を作らず、苦から解放して楽しくなるように諭しているからだ。
「慈悲」については次回詳しく書くことにするが、利他行・善行を目指して行動することが苦からの解放だ。
日頃から両極端に選択する判断・決断をするのでなく、「中道」に行動する自分を磨くことだ。
相対二元の考えから脱却し、二重否定で絶対積極の現実に生きることを教えるのが「八不中道」だ。
皆さんは中道を自らの知恵と行動で仕事・人生を楽しんでいますか?