社会人として生きていくには二つのことを満足させねば成らない。
一つは経済的に生活が成り立つかである。
もう一つは死ぬまで生きがいを感じる考え方を身につけ実行する。
この二つが実現すれば心も体も養える。
さて、恩師小田切瑞穂に出会ったのは23歳であった。
私を見て「君は行動力があるが、精神の柱がない」
と断言された。
「どうすれば精神の柱ができるのですか?」と問い返すと、
先生は「私の主催する東方学術院の関西の世話役をやりなさい」ということで、梅田にある大融寺で会合がなされ、世話役をやらしてもらった。
もともとは理論物理学の先生だったが、科学の知識のないわれわれにはもっぱら禅の話が多かった。
よく話されたのは、臨済義玄(?~867年)臨済宗の開祖の言葉で、「仏に逢っては仏を殺せ、祖に逢っては祖を殺せ」と言い出し、仏に逢ったら殺せ、お釈迦さんに逢ったら殺せと爆弾発言ですね。
毎日仏さんに手を合わせ、感謝し安寧に過ごしている人にとっては冒涜的な表現だ。
何者にも拘らない、依頼心も起こさない自由自在で闊達な境地を体得しろというのである。
これこそ禅で言う解脱である。
「葉隠れ」で言うところの「武士道とは死ぬことと見つけたり」という心境で自由自在な剣さばきを言うのである。
ただ一生懸命、日向なく人の倍働けば、人並みには生活でき、生きがいも生まれてくるだろうというちっぽけな価値しか持ち合わせてない私にとっては茫然自失であった。
この先生は気が狂ってる、誰もが尊敬してる神仏を愚弄しているとしか思えなかった。
ところが、社会生活をしてると段々と視野も広がり理解できるようになってきたら、「色眼鏡をかけて物事を見るな」「事実を如実に見ろ」といわれる。自分の善悪、損得、好き嫌いの価値ができてきたんでしょう。
本当に困ったもので、どんな行動してもこっぴどくやっつけられるのである。
あるときは「資本主義の奴隷か」と頭ごなしにやられました。
そこで気付きだしたのは、自分を自分で磨くには外のモノ(お金やイデオロギー、学歴や、家柄)に頼らないということだ。自分の中を見つめ自分を信じ、自分を磨く。
何者にも頼らず自由で自在さを獲得しろという教えに違いないと思えるようになってきた。
このものの見方を学んでいなかったら、現在の仕事もとっくに崩壊していたに違いない。
これが精神の柱の作り方だ。
皆さんは自分で自分をどう磨いてますか?