人間は生まれた時には無知無明で恐怖と不安だけがある。
母親を頼りに乳をもらい、外敵から守ってもらわなければ生きられない。
外の世界から身を守るための居場所、居心地の良い母の胸と他人の胸を知る。
そこから少しずつ安全を確認しながら他人を受け入れる。
このように何事も自分にとって命の危険がないかを確認しながら世界を広げていくと、自ずと二項対立の判断基準ができる。
危険なところには寄らないように用心深く居場所という世界を広げていく、同時に現実に起こってくることを100%受け入れて「全肯定」した人がいる。
オーストリアの心理学者ヴィクトール・フランクルは、第二次世界大戦において、ユダヤ人であったためにナチスドイツによって家族とともに強制収容所に投獄され、想像を絶する過酷な境遇の中で両親、そして妻を殺され、自分も殺される寸前に生還した。
その彼は、人生で与えられたもの全てを肯定するという思想を語った。
これと全く同じように、日本では親鸞も「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言ったように、善悪で人間を分けないで全肯定した。
無意識に見ていると、二項対立させているのが普通と考えている。そう信じていると言ってもいい。
そこで何が起こるかと言えば、迷う、苦しみ、損得、好き嫌い、善悪という基準の分別が起こり、判断するときに悩むのである。それは自分が我慢するかしないかである。
しかし、フランクルや親鸞は現実を二項対立させず、一元(現実全肯定)という見方で自ら現実に対応する姿勢を作る。
もし二項対立の意識で対応すると、自分が先か他人が先かという判断とともに、自分の価値感の中での好き嫌いや損得、善悪に迷い苦しむ結果になるだろう。(凡人の私たちの思考回路だ)
人間は、ポジティブ思考は良くてネガティブ思考はだめとか、幸運なことは良いが不幸なことはだめ、運が良いのは良いが悪いのは受け入れないと判断するのが普通だ。
さて、全肯定の思想は「本来、人間の人生において、否定的なもの、ネガティブなものは一切無い」と考える姿勢だ。
中村天風流に言えば「絶対積極意識」であり、朗らかで、明るく、陽気であるということだ。
「人生で与えられた全ての出来事や出会いは、それがどれほど否定的に見えても、我々の心の成長や魂の成長という意味で、必ず深い意味を持っている」ということだ。
芳村思風さんは「現実絶対肯定」と表現され、森信三さんは「真理は現実のただ中にある」と表現される。
物質的に、感情的にはマイナスなことが起こっても、魂はたくましく進化し成長するのが「全肯定」のモノの見方スタイルだ。
勿論、現実的な、物理的なことでは減ったり増えたり、損したり得したり、善であったり悪であったりはする。
皆さんはモノ(目に見える現象)が大事でしょうか?自らの命を大切にするタフな魂(心)で生きる喜びを大事にしますか?