好事不如無とは
碧巌録第八十六則にある言葉で、「好事も無きに如かず」 と読みます。普通は「好事魔多し」といって、好い事はとかく妨害が入りやすい。または好い事があれば悪い事がくるという分別心から、調子に乗らないように気をつける。 もっと言えば、好事なんかもともとないほうがましだという意味に使われる。
だが、禅ではもっと深く、己の心が二つの事にとらわれるなと教えるのである。
好き事、価値あることがあれば、人間はそのことに「執着心」を起こす、
また好し悪しを考え出し、「分別心」がでるというのである。
そうすると、煩悩妄想の種となって好きなものに執着し、
悪しものを切り捨てようとする分別心が起こる。
「執着心」「分別心」を一瞬に捨ててこそ自由自在さを獲得する。
好き事によって、自分の心は自分を曇らせ二つ心にとらわれ開放されなく妄想するのである。
しかし、多くの体験を踏んで苦楽を突き抜けた人は「執着心」「分別心」から解放され、 悟りを得る。
ところがここで油断してはならない。
心は悟りに執着してしまい妄想の始まりとなる。
本来はその得た悟りをさらに捨てなければならないのである。
世の中に悟った風の人がいるのも事実だ。
一休禅師は「悟りとは無いということを悟った」と言い放ち、
良寛和尚は「詩の詩人くさいのと、料理の料理人くさいのと、
書の書家臭いのは、まことに鼻持ちならん」といってる。
京セラの稲盛さんは自分に厳しく経営の極意を知っておられる人と感じる。
服装は紺の背広に赤いネクタイで普通のサラリーマンだ。
話す口調も偉そうに上からモノをおっしゃられなく、
感情も入って暖かいし、時には厳しい普通の親父だ。
一度話したことがある。
「君何してる」
「石屋です」
「今中国の石多いやろ何トンはいってる」
「はい、80万トン」
「粗利な何ぼや、経常利益10%でてるか」
矢継ぎ早に質問される。
「いや」と濁した。
眼光は鋭かった。
仕事には厳しいが、話し方は普通の親父の口調だ。
自分の力以上にも以下にも見せない素の人間らしさを感じた。
仕事を通じて世のために役に立ち、
もっと的確な方法や道を探して歩むには、
社会や人間を学び続け仕事という土俵の真ん中で相撲をし、
現実を直視し、立ち向かって改善していく気迫がいる。
皆さんは執着心、分別心とどう向き合っておられますか?