「鬼」と「仏」

投稿日:2019年9月17日 更新日:

鬼仏一如が本来の姿である。
道元の言葉に、
「仏道を習うは、自己を習うなり。
 自己を習うというは、自己をわするるなり。
 自己をわするるというは、萬法に証せらるるなり。
 萬法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして、
 脱落せしむるなり。」

簡単に言うと、道元は自己を忘れるとは「無我」になるということで、
そこには自己と他己という分別がなく、一如だというのである。
それは萬法=天地自然の道理に従って生きる姿がある。
自己の実践がすべて道理に叶っているということは天地万物と同根であるというわけだ。

私たち人間は鬼(自我)の面と仏(天地自然の我=無我)の二つが入り交ざっているのである。
道元の言葉に「善悪は時なり」という言葉がある。
人間は時によって善の顔、悪の顔をするのである。
では一体何を基準に「何が正しいか」という自問自答が大事である。
仏教の言葉に「妄想を除かず、真を求めず、無明の実相即仏性、
幻化の空身即仏身」と今を受容する事、無我なる自己が存在する。

だからこそ、私たち凡夫は生きる目的や志、意義が自己の欲望でなく、
世のため人のためになることを自問自答せねばならない。
公明正大な目的のために行動してるかどうかが問われるのである。

他己(部下、子供)が私利私欲を優先していれば鬼となり、他己(部下、子供)が公明正大にお客さんや仲間に役に立っているなら仏のようになる。
勝に、心の置き所によって善悪が決まるのである。

こんな事言わなくても誰でもわかっているが、
即行動してやることが出来るかが問われるのである。
知っているしできる。
知っているができない。
知らないけどできる。
知らないからできない。
この四つのパターンの人がいる。

皆さんは今の自分の心の立ち位置はどこですか?

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