私は小学校から中学にかけて生徒会の副会長をしていた。
小学校4年生の頃、担任の吉川先生から「君は人気があるから生徒会やりなさい」と言われて立候補した。
今でも覚えているが、自分の所信表明の演説には必ず『私が当選した暁には・・・』と言うセリフを言いなさいと教えられた。
中学生になり陸上部に入って、放課後はもっぱら高跳びや中距離走をして身体が丈夫になった。
中学校の周年行事には演劇があって、「イワンの馬鹿」という物語のお兄さん役、「杜子春(とししゅん)」の鬼の役もやった。
高校に入っても記憶勉強にはあまり興味を持てず、学ぶ意味が解らなかったので適当に体育際の委員長になったりしていた。
最近、上杉鷹山(うえすぎ ようざん)の「学問とは古聖人の道を稽古修行することなり」という言葉があって、この年齢になって学ぶことの楽しさが腑に落ちた。
論語を習い始めて十数年は経つ。
孔子の道は「忠恕(ちゅうじょ)」のみと「里仁篇(りじんへん)」で46歳年下の弟子の曽子(そうし)が師の根本理念をズバリ表現する。
忠とは「まごころ」、恕とは「思いやり」である。
意味なら知識として誰もが知っているが、日常でこの行動が出来ているかが本当に学ぶことだ。
論語に次のような一文がある。
「曽子曰く吾(われ)日に吾が身を三省す、人の為に謀りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか」と。
曽子はこのように自分を戒めている。
この「三省」という文は高校時代の漢文の本の最初の項に載っていて暗記している。
最近、世界的に有名な大谷翔平は監督から二つの事を学び実行しているそうだ。
一つは謙虚と感謝の心になり奢らないために「トイレ掃除をする」、もう一つは「ゴミを拾う」ことだ。
これらは小さな善である。
大谷選手のこの行いがテレビで放映され、人間としての品性があると評されている。
内村鑑三の「代表的日本人」の中の一部を抜粋して紹介する。
「人は誰でも悪名は嫌い。名声を好む。
小善が積もらなければ名は現れないが、小人は小善の事を考えない。
だが君子は、日々自分に訪れる小善をゆるがせにしない。
大善も出会えば行う。ただ求めようとしないだけだある。
大善は少なく小善は多い。
大善は名声をもたらすが、小善は徳をもたらす。
世の人は名を好むために大善を求める。
しかしながら、名の為に成されるならば、いかなる大善も小さくなる。
君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。
徳あらゆる大善の源である。」
一日一善と小学校の頃教えられたのを思い出す。
一善は一悪が去るである。
学問することは知識を増やすことでなく、先人が歩いた道を自分も稽古修行する。
これが学ぶことの根本的な意味だ。
まさに「三省」を重ねて、現実の中で先人のように歩く稽古をすることを楽しむ自分でありたい。
皆さんは学問の真意いかが思いますか?