ある禅寺に行くと「足の裏で歩め」という張り紙がそこここにある。
意味を聞いてみると「頭を空っぽにして重心を下げることだ」と諭された。
ではどうしたらそうなるというのか?
答えは、無心で「坐禅」することだという。
「調身、調息、調心」というように身体を調えることで、それには息を腹式呼吸にすることだと諭す。
頭で考えると「意」が動く、すると無意識だが吐く息が少なく吸う息が多く胸呼吸になる。
「気」が上がるということだ。
「気」は気海丹田(へそした三寸)に集めることが、一番身心が調和して働くのである。
「坐禅」という方法は腹式呼吸をすることで、頭を空っぽにすることである。
食事をしているのに明日の仕事どうしようとあれこれ悩む。
これは無駄な頭であり、「考えをやめろ」と言い切る。
明日現場で対応すればいい。
自由自在に自分が現場に飛び込んで解決するしかないと断言する。(知行合一)
「足の裏で歩め」とは「足の刺激を感じながら実感を伴って歩きなさい」ということ。
足の裏の刺激がその時の「命」であり、迷いから脱出しているのであると諭す。
「読経」も同じことだ。
息が続く限りお経を読む(吐く息だ)。そして瞬間息継ぎする。
腹式呼吸になっている。
結果、「気」は丹田にあることになる。
さて「行」には2つある。
1.行(ぎょう)は上述したように、体と歩くが一体となる訓練であり、「気」の世界を言うのである。
2.行(おこない)は理由があって行動する「意」の世界を言うのである。
禅では三学と言って「戒・定・慧」の三つを体得する。
凡人の我々も、仕事があるから気が引き締まるし、会社には就業時間が決まっているので日常の生活習慣も出来やすいのである。
まさに「行」(ぎょう)は朝の起床時間、坐禅の時間、朝食と決まった生活習慣で一日を過ごす。
窮屈そうだが慣れると身体もそのように対応できるようになる。
凡夫の我々の方が好き勝手に時間使って、悩みを作っていることが多いと感じざるを得ない。
今やらねばならないのを後回しにしたり、寝る時間なのに惜しくて朝まで映画を見て、次の日は疲れて仕事にならなかったりする。
自由に時間があるのに、好き勝手にだらだら過ごすのが我々凡夫のすることだ。
さて、「戒」を守って生活習慣ができると、次は「定」で自分の心が揺れる水面でなく水平になって歪んで事実が写らないようになる。(如実知見)
如実にモノがはっきり理解できたら、「慧」と言って物事を見抜く智慧が出る。
「知」は単なる知識、「智」は物事を見抜くこと、「智慧」は物の道理が理解できるということだ。
「坐禅」とは何か?
昔から「坐禅」は「安楽の法門」と言われている。道元は「非思量。これ坐禅の要術なり。」と明言している。
「非思量」とは身体全体で風鈴のようになることと言われ、東西南北の風に何れと問わず反応することだ。
理屈や固定観念なしに、爽やかに素直に居ることが「非思量」だ。
天地宇宙によって生かされている命に感謝して、迷いや悩みの道ではない方向の自由で自在な本来の自分だ。
我々凡夫にはなかなか「意」が取れず、迷っているのが現実だ。
皆さん「行」(ぎょう)と「行」(おこない)の違いどう思いますか?