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「誠」について

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『孟子』の中に「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は、未だこれに有らざるなり。誠ならざるして、未だ能く動かす者は有らざるなり。」という言葉がある。
至誠にして動かざるものないということを信じて行動したのは吉田松陰だ。

そして『中庸』では、至誠を貫くにはどうするかを以下のように述べている。
「博く之を学び、審(つまび)らかに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を弁じ、篤く之を行う。学ばざるあり、之を学んで、能(よ)くせざれば措(お)かざるなり。(中略)人一たびにして之を能くすれば己これを百たびす。人十たびにして之を能くすれば己千たびす。果たして此の道を能くすれば、愚かなりと雖(いえど)も必ず明なり。十なりと雖も必ず強なり。」
「誠であろうとするものは、広く学び、詳細に質問し、慎重に思考し、明確に弁別し、周到に行うのである。学ばないならそれまでだ。学んでできないことがあるうちは投げ出さない。他人が一度でできるなら、自分はそれを百度する。他人が十度できるならば、それを千度する。本当にこの方法を行うことができたならば、暗愚の者も必ず善に明らかな知者となれる。軟弱なものも必ず善を守って怠らない強者になれるのである。」という意味である。

まさに、稲森さんの言う「誰にも負けない努力」とは出来るまでやるこの百回、千回の努力を言うのである。

神道で言う古き誠実さで神と向き合うことを、文武天皇の宣命に「明るく清き直き心」とあり、聖武天皇の宣命には「清き明き正しき直き心」とある。

さて、天照大神が高千穂に行ったのは稲作のだんだん畑を教えに行ったのである。
もちろん蚕も飼っていたので、今でも皇室で蚕は飼われているし、田植えの行事もされている。
村人はそのお礼に神社を立てたのである。人々が仲良く暮らすには、神を敬い、「誠」を貫き、心の浄化がいる。そして、仲間や人を愛することである。
西郷さんは「敬天愛人」を座右の銘として生涯貫かれた誠の人であった。

「誠」に生きるのは実にシンプルだが、偽りなく「誠」を尽くしたかと言えば恥ずかしい。
正々堂々と胸を張って「誠」を貫いてこそ、自分の心と身体の主人になれることは確かだ。

皆さんは「誠」について考えられたことありますか?

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