「日本的モノの考え」「欧米的モノの考え」には宗教的なことが根底にある。
日本は中国や韓国から仏教や儒教を受け入れ、それを自国流に仕上げて現代がある。
仏教伝来は538年と言われており、『元興寺縁起』に百済の聖明王から欽明天皇に金銅の釈迦如来像、経典仏具が送られたと記されている。
それ以前の日本は八百万の神を祀って自然崇拝をするアニミズムの宗教観だった。
だから、あらゆる物事は変化していくという価値観を無意識に持っている。
仏教的には「諸行無常」ということだ。
だから必然的に「無我」という自分の存在が融通無碍(ゆうずうむげ)な対応ができると考えている。変化する自我を「無我」という。
「無我」とは己を虚しゅうして人に尽くすことがよいことと無意識に思っている。
ところが、近代的な自我は欧米の考えで、キリスト教の一神教から来ており、これは一種の原理主義だ。
霊魂は不滅という考えで、「自分は同じ自分」「不変」と考え、自我を押し通す為に唯物論的科学を信じる存在が自己であるということになる。
「存在が意識を決定する」
意識はデカルトの言う「 我思う、故に我在り 」で自意識が形成される。
私の青春時代を振り返ると、風に吹かれてゆらゆら揺れて、自我が形成されておらず、目標も自分のしたいことも決定できなかった。
変化することすら意識になく、他に依存して自分を探していた。(依頼心そのもの)
無我だから自分がないのは当然だったが、夢や理想はあった。
人間同士が仲良くして、信頼し合い、助け合って、嘘のない社会が望ましいと思っていた。
ある時期、自然の恵みをみんなのものとしての共有財産として扱い、働いた分だけ分配を受ける。
共産主義が理想という自我に目覚め、資本論を学んだ。
理屈の上ではいいと思ったが、現実にそんな社会が作れるかどうかはやってみないとわからない。
27歳の後半頃、石材の事業をすることになって3人からスタートした。
身体はあったが、資本も技術も事務所も何にもない状態で、越えなければならないハードルがいっぱい出てくるだけでなく、育った環境が違う仲間とのコミュニケーションもままならなかった。
自分にないのは変化しない自我で、社会を科学的に分析し、論理的に物事を組み立てる思考力だった。
体験のない未知の世界を、毎日薄氷を踏むように不安でいっぱいの中を歩んできた。
言い換えると、不安と恐怖心が原動力だった。
さて、日本的がいいのか、欧米的がいいのかと対立させても仕方がなく、この両方のモノの考えを持ちハイブリッドで走行することが現代では意義があるように察する。
戦後、敗戦によってマッカーサーが占領軍の総司令官として来日し、日本を統治するために「軍隊は持ってはダメ」ということと、もう一つは昭和22年に民主主義という名において労働法を施行して、労働者と経営者のイデオロギー論争をするように内部分裂を図った。
現代はヨーロッパ型の福祉国家へと方向を向けているが、欧米の近代的自我が充分育たず、日本的なモノの考えとの矛盾を抱えながら、社会的な停滞状態になっているように感じるのは私だけだろうか。
欧米も株主資本主義は貧富の格差が起こり、社会が不安定になるとなって、最近は公益資本主義を標榜するようになってきた。
会社は公器でみんなのものだ。
資本家と労働者に分けることに意義があるのでなく、同じ船に乗っている仲間であって、集団の中での仕事は役割分担に過ぎないと考える。
特にリーダーの人は自分が偉くなったと錯覚しないようにしなければならない。
今の法体系も今後はさらに進んで、自由でより平等になっていくことは間違いない。
自由と平等は矛盾するが、あくまでもこれらを統合することを目指して社会が発展・進化することを祈る。
みなさんは日本的モノの考え、欧米的モノの考え、いかが思いますか?