密教では「自力」と「他力」の両方を取り入れて、目的は「覚る」ことである。
さて、仏教を紐解いてみると「自力本願」という言葉はなく、「自力」は「自分の力、己の力」ということではなく、「自ら備わっている力、生まれながらに頂戴している力」のことを言い、赤ちゃんが生まれながらに教えなくても母親の乳を飲むようなことだと教える。
また、実は「他力本願」というのは、阿弥陀さんにすがって生きるという意味でなく、阿弥陀さんが持っている「利他力」によって「本願」の覚りを得ることを願っての言葉であり、それに沿うように「自力本願」という造語が出来たということが仏教の解説書に書かれている。
弘法大師は『虚空蔵求聞持法』で、マントラを100日100万回唱えて解脱し、超記憶力が優れた人物となったという。
これを現代に応用して凡夫が行うのが「四国八十八か所」の巡礼だ。
その修行も「自力」と「他力」の両方を使っての器用さである。
死んで覚るのは意味がないと真逆の「即身成仏」を唱えたのが弘法大師空海だ。
一般には「自力本願」は坐禅のような方法で自ら備わった力で目的は「覚る」ことである。
「他力本願」はコペルニクス的転回と考えられる「地動説」である。
「天動説」は地球(自分)が中心で太陽も他の惑星も自分の周りを回っている存在と考えるが、「地動説」は太陽の周りを地球(自分)も他の惑星と同じように自転しながら回っているという考え方である。
言い換えると「自然法爾(じねんほうに)」と言って、人為を捨てありのままに任せることを意味し、「法爾」とはそれ自身(自然)の法則に則ってそのままにあること。
「地動説」は、地球(自分)は太陽の周りを自転しながら回る惑星の一つであると自覚することだ。
「他力本願」を自分中心で考えると「人任せ」になり、阿弥陀さん(太陽)中心に考えると、この私がどれほど恵まれたものを授かって、阿弥陀さん(太陽)の支援を受けて(栄養が合成されて)大切に生かされていることに感謝し、恩返しに他人に役立つ働きをしてお返しする利他行が大事なんですね。
自らが豊かで生き甲斐のあるようになりたければ、まず他人に豊かで生き甲斐のあるように働くことが大事だと教える。
それが「他力本願」が意味するところだ。
みなさんは「人任せ」の他力本願どう思いますか?