大阪石材社長ブログ

「確固不抜」になる

投稿日:2023年5月21日 更新日:

「確固」とは心がしっかり定まっており、どっしりとしていてモノに動じないこと。
「不抜」心がしっかりしていてくじけないこと。
この言葉は『易経』の「確乎其不可抜、潜龍也(確乎としてそれ抜くべからざるは潜龍なり)」と乾卦にある。
中村天風は易経の潜龍(潜在意識を意味する)の力を応用する心になることに気づいた。
人間にはとんでもない潜勢力という力が発揮されるように出来ているというのである。
心に信念を持つと想像力がみなぎって楽しくなることを加味すればすごい力となるという。

信念というのは「ああなりたい」「こうなりたい」という相対的な意識を持つことではなく、否定も肯定もしない相対的な心の在り方から離れた絶対的な心になることだという。
世の中には自然が作ったものと人間の心が作ったものしかない。
だから信念の実際状態を自分で気付き、創ることだというのである。
それには、心を「怒らず、恐れず、悲しまず」という消極的な濁ったものや忌み嫌うものを取り去らねばならない。取り去るとは「考えないようにする」ただそれだけだ。
すると信念が相対性を離れ、絶対化するというのだ。「虚心平気」の心となるが、暗示をかけるのと内省を繰り返しする。

この心になるには、宮本武蔵と彼を取り立てた熊本藩主細川公との対話が物語っているので例として紹介する。
細川公が武蔵に「武蔵、今まで戦ってきた相手の剣術の腕はいかがであった」と尋ねた。
武蔵は「もちろん、すべての剣客の腕はすごいものでした」と答えた。
さらに細川公は次のように尋ねた。「試合に臨んで勝ち負けを考えたであろう」
すると武蔵は「剣術が本職ですから勝ち負けを考えたことはありません」と答えたそうだ。
勝とうと思えば強情な自分が出て独りよがりになり、負けるのが怖いと思えば立ち合いにならない。
真剣勝負は生死を超えた確固不抜の心にならねばならないという意味だ。

人間には「我」があり、相対的な「無我」があり、絶対的な「無無我」というように飛躍する。
般若心経にある「無無明」というのと同じで、心は傍観的な虚無ではなく、現在意識と潜在意識が一如になることを意味する。
まさに、自己と自然と勝負が一体となった状態で言葉がない空間であり実在だ。
天風はこれを「心身統一法」と名付け、観念要素の更改や暗示法、クンバハカ法などを指南し、松下幸之助をはじめ現代では大谷翔平や松岡修造なども天風哲学の学びに共感している。

みなさんは相対性を超えた世界観いかが思いますか?

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