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「迷悟一如(めいごいちにょ)」が本来の自分

投稿日:2023年7月22日 更新日:

「坐禅和讃(ざぜんわさん)」は江戸時代の臨済禅の中興の祖と言われた白隠禅師が書かれた。
実に我々に分かりやすく語り掛けるように易しく諭されている。

「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中にいて、喝を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて、いつか生死を離るべき

それ魔訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり
布施や自戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等
その品多き諸善行、皆このうちに帰するなり

一座の功を成す人も、積みし無量の罪滅ぶ
悪趣いずくに有りぬべき、浄土即ち遠からず
辱なくもこの法を、一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は、福を得ること限りなし・・・」
この後も続きますが、今回はこのぐらいの処を私流に解釈します。

仏教ではよく「分別するな」と教えます。私たちはとかく善悪、好悪を分けてから出発して思考しますが、それは本来の自分ではないというのである。意識で勝手に作った自分だというのだ。
最初に出てきた水と氷は、どちらもH2Oであるが、水が無かったら氷もないのだ。
我々は凡夫のままでお浄土の真っただ中にいるということを自覚することだ。

ただ、だからといってそのままで良いという訳ではない。
それを持続するためには「諸善行をすることだ」と言うのが白隠禅師の諭しだ。
日常生活する我々なら、他人の役に立つことをする利他行を優先することだ。
そうすると「福」を得ること限りなしという訳だから、皆実行するはずだ。
本来、人間は宇宙の原理を宿しており、誰もが幸せになり、福を得る資格がある。ところが、我欲(煩悩)に乗っ取られ、本来の自分を曇らせてしまうという面もまた人間に仕組まれている。だからこそ諸善行をする。我々は日常生活者だから、世の中を少しでも良くして他人を喜ばすことだ。

言い換えると、この煩悩具足の自分を丸ごと受け入れ、煩悩に乗っ取られない本来の自分になることだ。
「迷悟一如」という言葉もあるように、水と氷だが水の清らかさと柔軟さがなければ氷もない。
無分別、無分別!!!!

みなさんは「迷悟一如」いかが思いますか?

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