大阪石材社長ブログ

「抜苦与楽(ばっくよらく)」に思う

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人間の本能とはすごいもので、何かを思う時に必ず出てくるのは「自分がこうなりたい、こうしたい」という気持ちで、自分を直接磨く方法で自らに努力を強いるので、完璧思考に陥り自己破壊という面もある。
例えば、陸上選手のように自分の過去と戦い、自分を超える記録を出すことを目標に自分を磨き鍛えることだ。
一方、課題を自分に置かないで他人や外の課題に置いて、その解決を必死になって行うプロセスに自分を磨く方法もあるが、自分のことが二番になるので、本能的な自己中心的な思考とは全く逆の発想の課題解決の思考方法だ。
言い換えると他己中心にして自分が対応し実行する思考方法になるが、いささか主体的な責任回避というポジションで、よほど強い信念を持って事に当たらないと不安と恐怖に押しつぶされる面もある。

仏教の教えの一つに「抜苦与楽」というのがある。
衆生を苦しみから救い福楽を与える菩薩行の一つですが、実は他己中心に課題を設定して、自分が行動し解決していくプロセスで自分が磨けるという意味でもある。
だから、自力他力によって自分の磨き方が違うし、結果も違ってくるが、どちらが良いとか悪いということはない。
世の中には学者やスポーツ選手のように自分を高め技術や人間力を磨く「抜苦与楽」もあるし、人と人を取り持つビジネスのような仕事では、対応する人や課題を解決することで自分を磨く「抜苦与楽」もある。
自分の太刀筋を良く客観視すると、同時に自分が対する人や課題がよく理解できる。

元来、私は自己中的な思考だったが、多くの人と仕事をする立場になって、自然と他己中的な思考が身についたように思う。
しかし、自分の中には二人の自分がいて、自分と向き合う時は独学を楽しみ、他者や課題が目の前にくると他己中的な対応をしている。
自分と云う主体は独自の一人だが、その内側には二人の自己がいつも話し合いながら事実に合わせて対応している訳である。
肉体と心、光と影、善と悪、と相対化して現実を捉えがちだが。「物心一如」でひとつだ。
そう考えると人間にとって肉体と心は道具であり、光と影は一つのものの表情に過ぎないし、善悪は時という一つが決めるのである。
道元は「善悪は時なり」と諭す。

みなさんは「抜苦与楽」どう捉えますか?

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