大阪石材社長ブログ

「導くやり方」に思う

投稿日:2023年8月5日 更新日:

4月に新入社員が入り各部署に配属された。
ある支店の営業の上司が部下から「お礼のはがきを書くにはどう書けばいいか?」と相談されたので、上司はいつも自分が書いている訪問のお礼状を見せて教えた。部下はそのまま同じものを書いて送ることにしたそうです。
しかし、2年先輩の同僚は「それは指導ではない」と言ったそうだ。
どうしてかと聞いてみると「書くべき骨子を教えるのは良い。しかし、自分で考えなければ心が込もったはがきにはならない。自立した営業になるには、何事も自分で体験を重ねるべきだし、そうしないと御客さんに自分の心からの礼状が書けない。」と言うのである。
もちろん、上司のリーダーは自らで体験し心を込めた文章を書いたのであろう。
新入社員とはいえ、その人の成長段階にもよるが、大学を卒業してきた年齢だ。自立心を育てる指導をした方が良いというのも納得がいく。
この話は自立心を養う主語が相手の話の導き方だと感心させられた。

禅語にも『無門関』第46則に「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)進一歩」(百尺竿頭一歩を進む)という公案がある。
「石霜和尚曰く、百尺竿頭如何が歩を進めん。又古徳云く、百尺竿頭に坐する底の人、然も、得入すと雖も、未だ真を為さず、百尺竿頭に須らく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」
宋時代の石霜楚円(せきそう そえん)禅師が言うには、百尺竿頭とは高い高い竿のてっぺん、則ち「絶対の悟境」又は「孤峰頂上」と言います。不惜身命で参禅を重ねて窮めた境地を言います。
その次の句さすがです。古人が「上山の路は是れ下山の路」と言うように、悟り得た路にどっしり腰を据えてしまい、有頂天になって陶酔してはダメで、向上の一路は下山の一路へ転ずることを忘れてはいけない。
一如の世界に入ったら、相対二元の世界、汚れた迷いの世界に立ち戻らなければならなく、至る所に出現して、済世利民に意を用いなければならない。
サラリーマンにしろ、漁師にしろ、農夫にしろ、その人の因縁による立場で、私心なく本務を果たし世のため人のために尽くさねばならない。(悟ったからこそ進一歩)

私たちは自分のことばかりで、あまり周りの人を見ておらず、何気なく日常を送っているが、色んな職業の中には私心なく導いてくださる方がたくさんおられるが気づかないだけなのだろう。

禅師の中では、大徳寺を開山された大燈(だいとう)国師は20年間五條の橋の下で乞食の群れの中に入っておられたし、妙心寺を開山された関山(かんざん)国師は美濃の国伊深の山中に入って8年間村人と労役をされた。
凡夫の我々は相対二元の現実の中で日々、損得、善悪、好悪に振り回されているのが現状ですが、仕事三昧する中でも何かに気付き、少しでも「私心なく動機善」で行動する積み重ねの大事さを改めて胸に刻まれた。

みなさんは導き方の主語が相手になった行動されていますか?

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