悟ったふりをする人間を人を騙す狐になぞらえて「野狐禅」と言うのだが、大綱宗彦(だいこうそうげん)和尚の詩に「大方の世捨て人には心せよ 衣は着てても狐なりけり」というものがある。
禅の修行をした人は普通の日常会話のような返事はしない。
数日前にこのブログで、達磨禅師が武帝から「お前は何者だ」と問われて「不識(知らん)」と答えたという逸話を紹介した。達磨禅師の返事は一般的には常識外れで偉そうに感じるが、我々凡人は善悪、損得、好悪で分別するから迷いを起こすという。
禅宗ならではの教えの「無分別知」から言えば、達磨禅師の返答は当然なのだ。
茶道も同じで、有名な仙厓 義梵(せんがいぎぼん)和尚の遺稿の中の『茶道極意』に、「それ茶道は、心にあって術に在らず、術に在って心に在らず、心術並びに忘ずるところ、一味常に顕(あらわ)るるなり」という一文がある。
茶の湯は禅を裏づけとして発展してきたとも言えるので精神面が重んじられてきたが、宗教的な精神面を強調する面と同時に、喫茶を中心とした芸道として作法の術を重んじる面がある。しかしそのどちらも忘れろと言う。それを「両忘」と言い、その一段高い心境になった時に一味が顕われるというのだ。
われわれ仕事をするビジネスマンも同じで、商道としてお金を儲けるという現実と、御客さんや世の中の役に立つ誠実を旨に仕事に取り組む姿勢の両方があって、商人道だ。
20代後半に恩師小田切瑞穂先生から、商人(ビジネスマン)は六波羅蜜の「布施忍辱」を徳目にせよと言われた。
ある時、梅田の喫茶店に呼ばれて、「君は資本主義の奴隷になっている」といきなり叱責されたことを今も鮮明に覚えている。その時は意味が解らず、「先生は何か腹が立つことがあって僕に八つ当たりしてるのかな?」と思ったものだ。
まだまだ狐には違いないが、先生の真意を知らなかったことは確かだ。
みなさんは「野狐禅」をどう見破っていますか?