大阪石材社長ブログ

養老孟子著『ものがわかるということ』に思う

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もう3~4年になると思うが、月に1度読書会をやっている。
朝の7時から9時まで、順番に本の中身の要約をまとめて発表する。
200ページもある本を読むには数時間はかかるが、これだと2時間で済むのと、参加者の感想を聞くこともできて、各人がどこに注目したかもわかる。
私はこれを「耳学問」と言っている。

先日の読書会の題材は養老孟司さん著書『ものがわかるということ』で、5章に分かれているので1章ずつ要約しての発表だった。
その中で印象に残ったところを書いてみる。
1.普通は自分がモノを見るから主語が私になる。「私がセミを見ている」となる。ところが養老さんは主語を外に置きなさいという。セミの気持ちになることだ。
2.ものがわかるということで、すべてが分かったと断定しない態度がいいという。それは変化するからである。だから、分かろうとする自分と分かろうとしてしまう自分の間にいることだというのだ。実に面白い表現だし、立ち位置だと感心した。
3.「知る」ということは自分が変わることだというのである。今まで知らなかったところに新しい情報が入り、脳がミックスジュースのように味や色が変わるからだ。(納得)
4.人間は繰り返し体験する事実を最優先することだという。体験から考えが始まる習慣を作ること。人は好きなことをやるのがいいというが、やらなくちゃいけないことを好きになると思いこんだ方がよくて、何事も中途半端にやってはいけないと言う。
5.正解があると思わないことも大事だという。もし正解があるとしたら、それは自分が決めつけただけというのだ。
6.人間の寛容さは世の中には思い通りにいかないことがあることを知っていることで、それが寛容の始まりであるという。
7.ある人を信じていたが、思っていたことと違うことが出てきた時に普通は「信じない」となるがそうではなく、その人の違う側面を見たのだと、自分の信じる気持ちが揺るがないことが「信じること」だという。
8.わかるとは共鳴することだ。なぜなら人間の体の中には自然があるからだ。自然のルールと自分自身が共鳴した時にとわかったとなるというのである。(動物は共鳴を知っている)

この読書会で哲学的な深いものを感じたのと同時に陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」を思い出した。
また、京セラの稲盛和夫さんの著書の『心』にも同じようなことが書かれており、「善なる心」、それは真・善・美で純粋で美しい心であり、この最も深い心は宇宙へと通じると評されている。それを「利他の心」と言い、その心を抱いて他を幸せにしようと実行すると、「宇宙の心」と同調し、共鳴し、自ずと物事が良い方向へ導かれると断言される。だから「人生の目的は心を磨き、他に尽くすことだ」と結ばれている。

弊社の今年のスローガンは「心を高め経営を伸ばそう」だ。
自らど真剣に体験し、貫いていきたいと確信した。

みなさんは耳学問どんなふうにされてますか?

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