「桃栗三年柿八年」
この格言を耳にしたことはだれでもあるでしょう。
種を植えてから実を結ぶまで、桃と栗は三年、柿は八年かかるということわざです。
また、種を蒔いてから一年で稲穂が成り収穫できるのが米です。
でも、米は勝手に大きくなるのでなく、水や太陽に光や土壌の栄養が要ります。
仏教ではこれを「因縁果」と表現しますが、米の種が「因」、太陽の光や水、土壌などの栄養を「縁」と言い、半年ぐらいで収穫できるのが「果」ですね。
人間も両親がいて生まれることが「因」、そして生活環境や友人関係、仕事が「縁」となり、今の自分ができている「果」。ある程度の肉体的な筋力や能力は、癖はあるものの、食事したり、遠方まで歩いたりはできるように仕組まれている。少し鍛えればさらに肉体的な能力は多能化し強化される。
問題は目に見えない精神的な価値、言い換えると「何が正しいか?」という基準を持っているかどうかだ。あらゆるモノや、事や、人に対する判断をする基準を太く、幅広く作らないと、人生の山坂というドラマに起こるような課題を解決することはできない。
その基準となるモノサシを頭の中にしっかり持っていることが主体的な自分となる。
その基準を常識ではなく「良識」という。すなわち、自分の主観的な判断基準でなく、誰が考えても「あたり前」と言える基準だ。主観的なものは「損得、好き嫌い、善悪」が入るが、「良識」はそのフィルターを外して事実を直視した考えだ。
「良識」の種を蒔いて、体験を積み、学び、自分なりに整理して、努力してるのに、なかなかしっかりした良識の柱ができないと放り出しそうになることがあるのも一般的だ。
仏教では、物事が解るのには三つの出方をすると諭すのだ。
「順現業」=まさに米のように半年経てば結果の稲穂が垂れることを言う。
「順次業」=良識を身につけようと種を蒔いて努力したが、桃栗と同じように三年かかって結果が出ることを言う。
「順後業」=良識を身につけようと種を蒔いて努力したが、柿のように八年かかって結果が出ることを言う。
物事が解るのには時のモルトを必要とする。
脳は情報処理、心は体系的にまとめる働き、身体は具体的に実現する行動を支えるが、このすべては主体的な自分の道具である。
だから脳内の情報はいつも新鮮なものに入れ替え、心は「損得・好き嫌い・善悪」で判断するのでなく「良識」で判断し、行動は利他行で善を成すようにすることだ。
こんなことは当たり前だと解っているが人間は早く実現したいという欲望・執着心が出てくるようにできている。
この葛藤を乗り越えて良識的な判断ができるようになったところに人格ができてくるに違いない。
みなさんは自分の理解の癖はこの三つのうちどれかご存じですか?