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「他力本願」と「自力本願」について

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700年前の鎌倉時代に仏教が今までの小乗仏教から大乗仏教へと飛躍した。
法然や親鸞は一生懸命に仏道修行を行ったが、自力本願の修行に絶望する。
「自分一人悟ってどうする?もっと大きな宗教観に触れていきたい」と考えるようになった。
それが衆生とともにという大乗の宗教観だ。

人間界では人間を善悪と区別するが、親鸞は自身が悪人であるという立場で、ともに救われるための言葉が「南無阿弥陀仏」だが、「南無(ナム)」は「帰依する」、「阿弥陀仏(アミタ―パ)」は「無量光・無量寿」という意味だ。
親鸞は元々人間には植物が伸びるように有り余るぐらいの光を受けて活動できる、死ぬまで生きられる命が与えられていると言うのだ。
それを「南無阿弥陀仏」を信じて自力でがんばれば救われると諭したのだ。(ここがポイント)
「他力本願」とは阿弥陀仏が我々の前に現れて助けてくれると言った他人に頼る努力しない生き方ではない。

『歎異抄』を書いたと言われる唯円(ゆいえん)は、元の名は平次郎と言う殺生を好む自分勝手な悪人であった。平次郎の奥さんは仏縁深い人だったが、平次郎はそれを好まず、夫の目を盗んで親鸞の稲田の草庵に参詣していた。しかし「家では念仏が唱えられないし、お祀りもできない」と親鸞聖人に相談し、ご本尊の名号を書いたものをもらい、隠れてお供えをしたり礼拝したりして念仏を称えていた。ある時、それを見て怒った平次郎は妻を斬りつけた。刀が肩から胸まで食い込んで血しぶきあげて妻は死んだ。我に返って平次郎は後悔するが元に戻らず、遺体をムシロに包んで裏山に埋めた。家に帰ると、今埋めてきたはずの妻が出迎えてくれて、驚いた平次郎は妻に今あった話をして、裏山へ行って遺体を埋めた場所を掘り返すと、血の付いた名号埋められており、妻が隠していた名号はなくなっていた。その後、平次郎は親鸞聖人から教えを聞き勉学に励んだそうだという言い伝えが今でも残っている。

親鸞聖人は還暦を過ぎてから陸奥から京都へ帰り布教され、唯円も上京して学び、53才で現在の奈良の立興寺を開き、60才に覚如上人に伝えた頃に『歎異抄』を書かれたと歴史的には伝えられている。

自らの命は自力が基本ということを「歎異抄」から再確認する次第です。

みなさんは他力本願を如何受け止められていますか?

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