禅宗でいう悟り臭さをとる修行の事で、いかに解脱してもそれはその時で終わり。物の見方を自由自在にするには人生には悟りはないプロセスに生きるのみと諭すのだ。
馬祖道一(ばそ どういつ)(709~788年)と弟子の百丈懐海(えかい)の問答が大乗仏教の本質をついていて、私もこの問答が大好きな公案でお気に入りなので紹介する。
馬祖が問う「仏法には有為を尽くさず(現実の世界を滅せず)、無為にも任せず(絶対の世界にもとどまらない)とありますが、現実世界を滅ぼさずということは、どういうことですか?」
懐海が「現実の世界を滅ぼさずとは、釈尊が道を求めて出家されて菩提樹の下で、大覚(さとり)を成就され、最後には沙羅双樹下で亡くなられるまで、その問いに答えた一切の法をすべて捨てないということ、これが現実の世界を滅ぼさないということである。絶対の世界に留まらないとは、無念の行を実践しても、無念ということを悟りの証にしないということ。空の修行をしても、空を証としない。菩提、涅槃、無想、無作を修行しても、それを証としないこと。これが絶対界に留まらない、ということである。」
肉体は有限であり、精神は無限に広がり奥行きも出るが、どちらが正しいか相対化することではなく、有限とか無限とかに留まるのは観念であり、今・ここ・自己が「行」という生きている点にこそ命がある。
故に現実を大切に生きるが執着しないし、身心を解脱し無為に生きても、それにも執着しないこと。
「向上の一路」が生きていることだ。諸行無常で、諸法無我。涅槃寂静なのだ。
千日回峰行をされた塩沼亮潤さんはこの修行もう一度やるかと自問された時「二度目は?」とためらわれたそうだ。
現実の日常生活は「有限と無限」の中にいる。その現実を同じペースで、同じ心で正直にまっすぐ生きること。
行じることが生きること。
みなさんは昨日より今日「向上の一路」を歩いてますか?