人間に意識ができたのは3000年前頃だと言われている。
5000年前ぐらいから自然の災害に対応するために他の動物は身体のみが変化していったが、人間だけが脳が発達して意識が生まれた。
これは私の想像だが、「なぜ生まれたのか?」を疑問に思い、次に生きていくために食べなければ元気が出ないので、この木の実(食べ物)がなくならないように「祈り」、そして「なぜ死ぬのだろう?」と、できるだけ死なないように「祈り」、次世代の繁栄を願う意識が生まれ、死んだら肉体と精神(魂)が分離し、魂が永遠と考え、手厚く埋葬するようになったのだろう。
事実、ネアンデルタール人の埋葬の跡が残っていて、周りには花が添えられている遺跡が発見されている。
動物の中で「祈る」のは人間だけだ。意識はさらなる繁栄を求めて「学ぶ」ようになった。最初は体験した範囲内の意識しかなかったが、言語が生まれて抽象化するように脳が発達した。意識は体系化されながら、危険を察知したり、より多くの獲物が取れるように道具を産み出し、火を発見し動物から身を守り、食べ物を焼いて食べるようにもなったのだろう。
そして、群れを成し集団で生活するようになって、より多くの獲物を得るために協力する仕組みができ、自然の恵みを永遠に得るように生贄を差し出し祈りをするようになった。その集団の長は経験と自然のリズムを読む力があり、吉凶を占うようになったのだろう。
そしてその後、農耕生活をするようになり定住するようになる。獲物の取り合いで領地の争奪戦が始まり、武力による戦いが続いていく。(日本の歴史)
鎌倉時代を始まりに武家社会となり、江戸時代の徳川家の支配の下での戦いのない時代を経て、近代国家の始まりの明治時代になり、富国強兵を掲げて軍国化していくのである。日清・日露戦争を経て、第一次世界戦争、第二次世界戦争へと戦いの時代が続き、1945年8月15日玉音放送で終戦が告げられた。
戦後から1990年頃までは技術立国として素晴らしい躍進を遂げ、GDP世界第2位にまでこぎつけた。
当時はジャパンアズナンバーワンと叫ばれ、世界中が日本経済成長を賛美したのである。
その影で、なくしたものは経済でなく人間力、すなわち「学ぶ」本質だ。
「学ぶ」とは、良知、良心、真理、道を学び楽しみ人格をつくることだ。
また、絶えず反省をして会得を深くする事であり、絶対的人間として相対的物の見方を超え、融通無碍の自在を体得することであると安岡正篤氏は語る。
言い換えると「本当の人間をつくる」こと、自分の持っている気質まで変えてしまうように、ど真剣な学びをすることだ。
現代は科学と称して、すべて相対化する思考手段を用いるが、絶対化する思考をとることが寛容という。
しかし、思考で終わるのでなく、行動にまで転嫁しなければ本当の人間にはならないともいうのである。
学ぶとは単に現象を解決するだけでなく、もっと心の奥の本当の人間を見つけることで行動が伴うことに、日々反省しかないと感じる次第だ。
みなさんは祈り学び本当の人間つくっていますか?