人間として生まれてから数年は親がかりで、自分でできることと言えば母の乳房を見付けて栄養を取ることだ。これは本能的に仕組まれている行動で、意識的にする行動ではない。自分の意識もまだできてないのが乳幼児だ。
母の愛情に包まれ安全を確保され笑顔で生きられるように人間はつくられている。時折泣くのは、一つは「お腹がすいた」、もう一つは「糞尿」の処理の合図である。
母に依存して育ってきた人間もどんどん手足がしっかりしてきて自分で歩きだし、あらゆるものに興味をもって、それを口に放り込んで吟味する動作に変わる。又、自由になった手は手あたり次第に触って何かを感じ取る。
母は子供に口伝えに名詞や動詞を言って、子供はそれで言葉を覚えるし、実際のものの活用もできるようになる。
依存して生きるから意識ができるようになって、依頼心が芽生え、両親や兄弟、友人などに頼って生きるんですね。
しかし15~16才の思春期の頃になると自立心が芽生え、自分の人生の旅が始まる。全ての思いや決め事には自己責任がついて回り、急に生きることの怖さを知るようになる。
一方、後先考えず無鉄砲に体当たりで結果を考えず行動する時期もあるが、ただ、無我夢中になって体験するだけでなく社会を観察し、自分という人間の能力や行動について深く思考するようになる。
自立心の極みと思う人物に宮本武蔵がいる。彼の「独行動」の中の言葉に「神仏は尊ぶべし、頼むべからず」というものがある。21歳の時に吉岡清十郎と決闘し、これを倒した。弟の伝七郎が仇討ちをしようとしたが討たれる。清十郎の一子又七郎を押し立て、京都の東北、一乗寺藪の郷の下り松ほとりが試合場だが、この試合に数十人の弟子を引き連れ構えているという情報が入り、武蔵の弟子は門人も連れて行ってくれと言ったが、武蔵はそれでは天下の大禁を冒す決闘になるので一人で行くとした。
以前の決闘には遅れて相手をイライラさせる戦法で行ったが、この度は先んじて決闘場所に行って待つ方法をとった。決闘所に行く途中に八幡様があって、そこ勝利を願おうと考えたが、「神仏は敬うもの」の言葉を思い出し、祈らず己の心に反省し、全身に汗が流れたという。
そこへ、又七郎がやってきて「今回もまた遅れるだろう」と休憩していたところ、武蔵は又七郎を真二つに切り殺した。門弟たちは気後れして、武蔵は矢を一筋袖に受けたのみで傷もなく倒したといわれている。
これほど己に厳しくなれるからこそ武蔵は勝ち続けたのだと察する。
もう一人紹介すると吉田松陰だ。
幕末に禁を犯して海外渡航をし牢獄に閉じ込められて、世に言う安政の大獄で死刑にされた人物だ。
安政元年三月二十八日松陰は牢番に呼びかけ「一つ願いがある。それは他でもないが、実は昨日、行李が流されてしまった。それで手元に読み物がない。恐れ入るが、何か手元の書物を貸してもらえないだろうか」
牢番はびっくりして「あなた方は大それた密航を企てて捕まっている。何も檻の中で勉強しなくてもいいよ」と言った。
すると松陰は、「ごもっともです。それは覚悟しているけれども、自分がおしおきになるまではまだ時間がある。それまでやはり一日の仕事をしなければならない。人間というものは一日この世に生きておれば、一日食事を食らい、一日衣を着て、一日の家に住む。それであるから一日の学問、一日の事業に励んで、天地万物の御恩に報いなければならない。この儀に納得されたら、是非本を貸してもらいたい。」
この言葉に牢番は感心して、松陰に本を貸した。
松陰と共にいた金子重輔と一緒に読んでいたが、そのゆったりした様子はやがて処刑をされる趣には見えなかったそうだ。
松陰は重輔に向かって「金子君、今日のこの時の読書こそ、本当の学問である。」と言い、牢に入ってもなお自己修養、勉強を止めなかった。「どうせ死ぬのだ」ということを前にしても最後の一瞬まで最善を尽くそうとした。
それが立派な生き方として称えられている。
これが史実かどうかは私にはわからないが、一意専心の思いを貫く強い意思と志があったに違いない。
自分にはそこまでの覚悟があるか自問自答する日々だ。
みなさんは依頼心から自立心どう変化されましたか?