大阪石材社長ブログ

「我々(世間)と私」について

投稿日:2024年4月29日 更新日:

日本人の「我々」は協調性があり、「世間」という名の「我々」があった。
言い換えると「建前と本音」と言われ、その両方を器用に使い分けた。家族や仲間の中では「個人の価値」を主張できたが、「世間」を無視すると「村八分」と言って小さな集団の中では協力や調和しない存在に追いやられるので、「世間」では「建前の私」を用いた。
それが全般にわたっての根底に流れていたのが戦後間もない頃までで、アメリカの民主主義と自由の考え方で個人主義的な教育がなされ「世間」がなくなった。

戦後間もない私の幼い頃は「モノを食べて歩くことは世間体が悪い、家に持って帰って食べなさい」ときつく叱られた。
「世間」で話す言葉は敬語と丁寧語が入っていて人を見下したり、独善的な自己主張はしてはいけないが、家では好き勝手に荒っぽい言葉を使って自己主張していた。
でも親は相変わらず「世間に出ては、そんな言葉使いをするな」と教えた。

ビジネスも小さなマーケットからグローバリゼーションと言って世界を相手にするビジネスへと飛躍した。
日本という「世間」だけでなく、世界という異文化も含めた「世間」となっていった。
一方、「私」も家の中とか親しい友の中だけでの主張であったのが、どんどん拡張してゆき、「世間」でも自己主張するというように、「我々」のルールが少しずつ「私」の方が主になっているのが事実だ。

時代が要求するのは「新しい我々」であり、共感し協力する連帯を育成する時期に来ていると感じる。
従来の「世間」というプラットホームでなく、さらに道徳的な高みのある「我々」である。
それも互いの感情を理解する形式的でなく、人間として質的に高い共感が得られることが必要十分条件だ。
人間は形式から質の向上を見て、また質的な飛躍が形式を産むのが事実だ。
「我々」と「私」を統一し、一つにすることは今までの哲学的抽象化と考えるが、民主主義を標榜し自由をさらに拡張するには個人主義が行き過ぎて互いが理解し合えなくなるだろう。

今こそ、「我々」を自分の中で高めるときが来ているように感じる。
別々だが、高い質の道徳性を持った「我々」があり共存して「私」があるのがふさわしい。

みなさんは如何思いますか?





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