恩師の小田切先生は理論物理学の先生で、当時、中間子論を展開した湯川秀樹さんと同じ京都大学で学ばれていた。
出会ったのは60歳半ばだったと思うが、私は25歳ぐらいのことだったと記憶する。
文科系の大学に行っていたので、理論的なことがわからないということで「般若心経」の講義から始まった。
法事などの時に近所の西願寺の和尚が来て読経しているときに聞いたが意味も分からず、ちんぷんかんぷんだった。
先生は摩訶般般若波羅蜜多心経と読まれ、魔訶とは偉大なという意味、般若は智慧、波羅蜜多とは般若の智慧に至るプロセス。
多分そのように説明されたが偉大な智慧を得たいとも思っていない私にはさっぱりわからなかったし、頭が拒絶状態だった。
そこで重要な「色即是空 空即是色」の核心部分の話を2、3回に分けてされたのを今でも懐かしく思い出す。
さて、色=物資、空=エネルギーであるという意味をおっしゃっていた。
物質を突き詰めると実体のないエネルギーとしか言いようがないということになるというのである。
わかりやすく言うと色=相対的な世界、空=実体はないが絶対的世界(宇宙が与えてくれた宇宙の世界)
人の五感では認識しがたい宇宙船や電磁波、原子核エネルギーにもなり、熱エネルギー、運動エネルギーにもなるが実態はない存在である。
先生がよくおっしゃっていた言葉に「意気色空を貫く」という言葉がある。
言うなれば色の世界が「意」すなわち意識化された世界で実態がある。空の世界は目にも見えない実体はない「気」の世界で存在はしている。
私は相対性の実態のある世界観がしみ込んでいて馬鹿な質問を繰り返していた。
「先生のおっしゃられていることを受け入れますが、エネルギーの気がどんな条件下で物質になるか見せてください」という質問だ。
アインシュタインの相対性理論で言うとE=mC²,m=質量 C₂=光の速度の二乗。
この公式は物質が持つ質量が消滅すればそれに見合うエネルギーが発生し、エネルギーが消滅すればそれに見合う質量が増大する。
天地創造の物質が現れたとき、ビックバンに唯一存在していたエネルギーが、まずヘリウムや水素などの軽い元素が生まれ、その後、星の中の核作用で鉄までができ、それより重い元素は超新星の爆発などによる圧力や重力の作用で出来て、それが宇宙にばらまかれたと推測される。
このようなことを見れば、エネルギーは物質の生みの親であり、この世のすべての根源であって、出来上がったものはすべて、人間を含め、エネルギーの化身、エネルギーの仮の姿となる。そしてこれらの物質はいつまでもまた元のエネルギーに戻れるのだ。
このように考えると小田切先生がよく言われたのは「私が死んでも私は生きている」と、すなわち物質とエネルギーの変化に過ぎないと考えておられたのだと今に思う。
2500年前の釈迦が気付いたことを般若心経は262文字にまとめて表現していることになる。
私は相対性の物質の世界に生きているからこそのピント外れな質問だったと今更反省する次第だ。
皆さんは「色即是空」を物質とエネルギーと思われますか?