大阪石材社長ブログ

「世間体はどこに行った」

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終戦により、アメリカのダグラス・マッカーサーが進駐軍司令官として日本やってきて、民主主義の名のもとに、戦前の日本文化を悉く壊してアメリカの自由主義教育を推し進めた。
両親は戦前の日本を体験しているので、修身教育や長幼(ちょうよう)(じょ)と言って、儒教の五輪の中にあった。これらは、年長者と年少者の間で守るべき社会的・道徳的秩序である。
年配の人を敬い丁重に接する道徳であり、学校の先生や警察官が特別に人民を守る偉い人と考え、礼儀を尽くす態度で接していた。
また子供にも、そのことを躾けていた。

ところが、戦後の国家とは人民のものという民主主義的な教育により、社会あっての自分でなく、自分あっての社会という個人主義傾向へ傾き、社会は個人が動きやすいように支援する組織と考えられるようになった。
個人が権力を握って言いたい放題の世の中になって、言論の自由が叫ばれる。
私たちはまさに戦後生まれで、民主主義へと驀進する中で育ち、1962年頃の資本取引の自由化を迎え、ますます民主主義という名のもとに資本が世界中を駆け巡り高度経済成長を実現していくのである。
経済的に豊かになる一方で、社会的制約もゆるくなり個人は好き勝手に自由という名のもとに道徳的、精神的な部分が磨かれなくなった。
平等という名のもとに労働運動が盛んになり、急進的な赤軍派が革命と称してあさま山荘に立てこもり、「社会主義国にして自由と平等を実現する」と資本に対する横暴さを否定して、よど号を乗っ取り北朝鮮へ亡命するのである。
その後の歴史は皆さんの知る所(失敗)となるのである。

さて、私たちを外から大人にする社会という制約がなくなり、個人が自由に活動する時代となった。何が起こっても社会が悪いというのが定番で、いつも個人の自由を阻害してはならないというのが正義となる。
国家は誰のものかといえば、そこに所属する人民のものに違いないのは事実だ。
しかし、その個人の資質を問わないで手放しにそう言い切れるかである。
形式的な意味では民主主義だが、内面的な意味の道徳や精神面が高まる個人の集団になってこそ、形式的にも中身もある民主主義だと考えるのも一理ある。

母は大正生まれで、特に礼儀作法についてはやかましく言った。
履物は出船のようにそろえて脱ぎなさいとか、お箸は横にそろえて右手でとって左手に持ち右手でつかむ。茶道のお手前のようなことを口やかましく言っていました。
今はそんな母のような人がいなくなり、世間はなくなってしまいました。
そこで、茶道を10年ほど習い、(うたい)を10年ほど習って日本文化の味わい深さを学び、この伝統の灯を消さないで、未来へ伝えていきたいと念願する次第だ。
日本文化は伝統文化の名のもとに好事家(こうずか)だけの世界となっているのが現状で、同時に世間体を言う人もなくなってしまったのが寂しい限りだ。

皆さんは世間体を気にされますか?

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