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「釈迦の仏教」に学ぶ

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2500年前にインドで生まれた仏教が中国を経て日本に伝わってきた。
釈迦が生まれて500年ぐらい後、北伝の仏教を大乗仏教と呼ばれるものが552年に入ってきた。
一方、南伝仏教はカンボジアやベトナムへ小乗仏教(上座仏教)と呼ばれ、出家者に帰依する仏教として今に至っている。

釈迦の言う「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」という四法印は、神秘的な訳が分からない怪しげなものでなく、何かオールマイティーなシンボルを敬えということもない。
まさに、心の在り方を教える両親や教師のように感じるのは私だけだろうか?

お釈迦さんが菩提樹下で、理解したことを鹿野園で話されたとき「天上天下唯我独尊」自己こそ自分の(あるじ)である。どうして他人が(自分)の主であろうか?自己をよく整えたら得難き主を得る。(ダンマパダ)法句経による。
では、どうすれば自分の主になれるかと問うと、八正道を行えというのであるが、これは後日詳しく書く。

お釈迦さんはまず「苦しみが集まった滅ぼすために道(行う)」一切は苦であるとテーマ設定された。
「苦集滅道」を四諦説と言いますが、人間の存在する姿を言い当てたのである。
そして、すべては因果の法則で出来て、すべては変化している(諸行無常)さらにすべての法則には主観的な我はない。
そのことを理解したら「安心立命」する(涅槃寂静)ということになるよ!
誰でもできるよ。

簡単な言葉で言えば「過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる」
「釈迦の仏教」で言っているのは「苦しみを消すには自分自身を変えるしかない」
自分を変えるとは主観を取り去り客観的自分を磨くことを意味する。
言い換えると真理を見抜き自分で現実を切り開き、自己成長するシステムであり同時に自己鍛錬システムである。

それをするのに一人では心が折れるので、みんなでやるシステムを出家というのである。
出家とは「心の改良を効率的に進める手段の呼び名」である。

主観をとり客観化して物事をありのままに見るのを如実知見という。
主観的主体から客観的主体になって、現実を直視して自己改良の中で解決策を想像し行動して人格がステップアップする。
無心になる主体をつくるには出家するか、日々の生活の仕事や家庭の課題を解決する中で自己改良がなされたら、
客観的な主体(無我)になれて、苦しみから解放されると説くのである。

一般に「愛」とはいいことだと思うが二面性がある。
1.物でも人でも愛することが行き過ぎると独り占めにしたいと執着すると煩悩となり「苦」を招く。
2.「慈愛」とか「仁愛」という、他人を喜ばす利他心は煩悩をかき消し安心立命する。

どんな人も幸せになりたいと思うのに「心の置き所」我解らず苦しむが、利他行すれば「幸福」になるというのだ。
こんなことわざがある。「心こそ心迷わす心なり 心に心ゆるすまじき」
「釈迦の仏教」は実にだれでもできる基本の人生の心の在り方を言っている。

皆さんは2500年前の「釈迦の仏教」どう感じられますか?

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