「親しき中にも礼儀あり」という言葉があるように、
私たち人間は、親しくなると何を言ってもいい、と要求するのは当然と思っている。
キリスト教社会では「愛」という言葉が、良いことのように使われるのは、
個人主義というベースがあるからだ。
個人が自己犠牲して近寄っていくと、解釈するから素晴らしい行動なのだ。
ところが、仏教的には「渇愛」と言って、仲良くなればなるほど、
もっともっとと求めるレベルが高く強くなり、良くない行動と解釈する。
恋愛中のことを思い起こせば良い。
最初は目と目が合うだけでいいのに、
親密な時間を過ごせば過ごすほど、目と目が触れ合うだけでは物足りなくなる。
電話をかけて返事がないと、相手が自分の思いに応えてくれないと考えたり、
極端にはほかの女の人や男の人ができたのかと疑い出す。
昨日、友人の奥さんが、
「私は孤独に耐えてるから死ぬときも美しく自分で死ねる。
友達の多いあなたは孤独に苦しむでしょう。」と言った、と聞いた。
主人が奥さんに理想を押し付けているんだろうなと思った半面、
奥さんも労ってほしいと思っているのであろう。
凡人の我々は、親しくなると理想の姿を要求する。
友人の話は現実の相手をよく見ることだと諭されたように感じた。
皆さんは求めない心、出来ていますか?