論語の子罕第九にある。
「子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」
意味=知者は物事の道理を弁えているので迷わない。
仁者は私欲を捨てて天理のままに生きようとするので心に悩みがない。
勇者は意志が強いので何事も懼れない。
誰でも生きていれば、経済的に困窮する事もあり、急な病になることもある。
仕事上のトラブルや人間関係の問題にもぶつかる。
どうすれば解決するかを64通りの物語で教えるのが易経だ。
「春夏秋冬」の時の循環はあくまで自然の理法だ。
ところが人間は冬はいらないと考えがちだ。
「春夏秋」の三つが循環すれば、より早く行くと意識で考えるからだ。
人間の欲望と言ってもよいが、ウサギと亀ならウサギ的な発想になるのが一般的だ。
亀は理想というゴールを見て歩き続けたから勝ったのだ。
論語ではあくまでも自分自身を修養をすることを正しいと教える。
自分が知者であり仁者であり、勇者でありたいと願うのは誰でも願う。
だが、孔子はそう簡単にはなれないというのである。
この前の文章にでてるのは、
「子曰く、歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり」
意味=寒さがはなはだ厳しくなっても、松や柏が他の木のようにしぼまないのがわかる。
人間で喩えると苦しみにぶつかって始めて真価がわかる。
(要するに困難に出会い自分が松か柏か雑草かの真実がわかる。)
その前文は「由」とは子路の事だ。
彼は少し強がりで荒っぽい武士のような気性でおだてに弱い。
「子路は敗れた綿入れを着て、狐や狢の皮衣を着た高貴な人のそばに立っても恥じないのは君やな!」と孔子は言う。
孔子先生に言われて調子にのって子路は繰り返し「有ることをねたんだり、
無いことを恥じず心惑わない」よしよしと自己満足していた。
孔子はさらに付け加えて人間が本物になるには、
「それだけではないよ!厳寒の苦しみを乗り越えて青々とたつ松や柏になる」というのである。
調子乗ってる子路は、孔子に一本とられダメ詰めされるのだ。
さて、自分の身と心の主人になるには、自らが知者として毎日学び、
仁者として毎日天理の物差しで生き、勇者として強固な意志を持って現実に当たる意外にない。
一年や二年のやったからと言って手に入るものではないことを覚悟しなければならない。
欲望と理想の二元を行き来していては解決しない。
欲望をエンジンに志し高く、亀のようにこつこつ十年を区切りにやり続ける意志がいる。
皆さんはいかが考えられますか?